1980年代、僕は六本木のディスコでDJをやっていた。当時、DJには「タイムカード」があって、毎日ディスコに「出勤」するものだった。ようするに「社員」であり、言ってしまえば単なる「レコード係」だった。
レコードは全部お店に用意されていた。そこにDJの個性は求められず、その一方で「お店の個性」は今よりも強かった。お客さんがお金を払ってお店に入ったら「骨の髄までしゃぶらせまっせ!楽しんでいって下さい!」みたいな雰囲気があった。だからDJはサービス業だった。
『マハラジャ』が登場したのは80年代半ば。ああいうのはキャバレー文化が昇華した形でディスコになったもの。さらに遡れば、60年代には、キャバレーに「フィリピンバンドがいて、それと一緒に客を踊らせるための司会がいる店」があって、その司会がDJの起源。
だから80年代初頭のディスコではその「司会」の伝統が残っていて、新宿あたりのディスコでは「みんな盛り上がってきましたー!」「フリーフード、フリードリンクはお早めに!」なんてことを喋っていた。日本のDJとはそういうものだった。
ところがある時、ニューヨークの『54(フィフティー・フォー)』という伝説のディスコが出したレコードは、曲と曲が混ざって繋がっていた。これにみんなビックリして、どんどん真似をするようになった。新宿や池袋あたりのディスコは相変わらずお喋りをしていたけど、六本木は喋らないDJが多かったので“繋ぎ”に進化して、独特の文化を創っていった。
当時、僕の友達はスクエアビルの周りをオープンカーでグルグル回っていた。1周400mくらいのルートを一晩中回る。そんな車が20台も30台もいた。その目的はもちろんナンパ。
夕方6〜7時は「満ち潮」と言って、女の子たちがスクエアビルのディスコへ行くために前からやって来る。その女の子たちに「ねぇ、乗らない?」なんて声を掛ける。そして夜の11時くらいになると、今度は「引き潮」と言って、ディスコから駅の方へ帰る女の子たちが出てくるので、また「おー、また会ったね!乗らない?」なんて。
80年代はそんな「ナンパ」自体が新しく、浮ついた感じがむしろ良いと考えられていた時代だった。