SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2007年3月3日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「六本木」

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 ここAVANTIのある元麻布のすぐ先の「六本木」は、日本を代表する歓楽街として国際的に有名な場所。様々な人種や国籍の人々で、いつも朝まで賑わっています。
 その六本木に巨大複合商業施設「六本木ヒルズ」がオープンしたのが4年前でした。そして今月の30日には、六本木ヒルズに勝るとも劣らない大きさの「東京ミッドタウン」がオープンします。戦後、常に時代の先端を走り続けてきた六本木が、また1つ新しい時代を迎えることになりそうです。
 当店の馴染みのお客さまたちも、その時代の変わり目に感じる部分があるのか、「六本木」にまつわる様々なお話をして下さいました。今日はそのお話を、ここで少しだけご紹介させていただきましょう。


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松藤哲哉さん(三井不動産 東京ミッドタウン事業部)

『東京ミッドタウン』の話

 東京ミッドタウンは「街を作る」というコンセプトが最初にあった。街の中には働く場所や住む場所、遊ぶ場所、憩う場所などが必要になる。それらが全部揃った「街」を開発したかった。だから名前に「タウン」と入っている。
 「ミッド」というのはそのまま「真ん中」という意味。新宿、日本橋、品川、渋谷、どこに行くにも大体10分ぐらいの場所なので、そう名付けられた。
 私は2003年からこのプロジェクトに参加するようになり、ちょうどその年の4月には六本木ヒルズがオープンした。すぐ隣のことだけに当然大いに気になり、毎日通ったもの。その頃の習慣で、いまだにあそこの美容室で髪を切っている。六本木ヒルズは良いお手本になったし、同業として一緒に六本木エリアを盛り上げて行きたいと思う。
 ミッドタウンは「東京の都心で暮らしている人が、より満足のいく生活を送るための全ての要素を備えている場所」にするのが目標。ファッション、インテリア、雑貨、サービス、レストラン、食料品など、トータルに都心での生活をより良いものにできれば、と思う。
 たとえばメディカルセンターは700坪もの広さを持ち、内科から美容まで14名の常勤医がいる。さらにアメリカで最も評価の高いジョンズ・ホプキンス大学病院と提携して「最先端の医療技術を街の病院で提供する」ということを実現する。
 もちろんその医師は日本人で、日本の医師免許を持っている人たち。でも外国人の多いエリアなので、看護婦や受付を含めてスタッフは全員が英語に対応できるようになっている。

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川添光郎さん(『キャンティ』代表取締役)

『キャンティと1960年代の六本木』の話

 ウチのお店にはサイン帳が置かれていて、昔のモノを見ると、サミー・デイヴィスJr.、柴田錬三郎、黛敏郎、穐吉敏子、筒井康隆、菊田一夫、井上靖、三島由紀夫、イヴ・モンタン、シャーリー・マクレーン、ジェローム・ロビンス……そこにある名前を挙げていったらきりがない。
 みんな名前の他に、ひとこと何か残している。シャーリー・マクレーンは「キャンティの料理は、私のウエストラインから上には良いお友達だけど、ウエストラインから下には大敵」なんて洒落た言葉を残している。菊田一夫は「忘却とは忘れ去ることなり、だがここの菓子の味は忘れられん」。三島由紀夫なら「春惜しむ ブラックタイの 慇懃に」なんて。筒井康隆は「七転八倒」だけ。
 1960年代、深夜12時を過ぎても開いているお店は『キャンティ』と『シシリア』くらいしかなかった。私は後にカーレーサーになった福澤幸雄という友人と一緒に、中学生の頃から『シシリア』に通ったもの。
 小遣いがなくなるとウチ(キャンティ)のお酒を2〜3本盗み出して、シシリアさんに買ってもらっていた。そんな風に親しくしてもらっていたシシリアにいると、赤坂の『ラテンクォーター』や『コパカパーナ』から綺麗な女性が、夜中の2時くらいにやってきた。我々は背広にネクタイを締めて、その女性たちをエスコートしていたから、我ながらマセていたと思う。
 当時の六本木は今ほど店もなく、ビルの背丈も低かった。たとえば昔の横浜の元町みたいな、ある種エキゾチックな雰囲気の漂う町だった。ちなみにウチの店の裏手には今でも古い住宅街が残っているけど、あの辺も違う意味で雰囲気があって良いところだった。
 飯倉片町の交差点には高速道路が掛かっていて、角には外務省の飯倉公館もある。この辺が昔の雰囲気をキープしてくれているような気がする。普通、高速道路で遮断されると発展しにくいので嫌がるものだけど、我々としてはむしろありがたいくらい。

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ピストン西沢さん(DJ)の

『1980年代のディスコ文化』の話

 1980年代、僕は六本木のディスコでDJをやっていた。当時、DJには「タイムカード」があって、毎日ディスコに「出勤」するものだった。ようするに「社員」であり、言ってしまえば単なる「レコード係」だった。
 レコードは全部お店に用意されていた。そこにDJの個性は求められず、その一方で「お店の個性」は今よりも強かった。お客さんがお金を払ってお店に入ったら「骨の髄までしゃぶらせまっせ!楽しんでいって下さい!」みたいな雰囲気があった。だからDJはサービス業だった。
 『マハラジャ』が登場したのは80年代半ば。ああいうのはキャバレー文化が昇華した形でディスコになったもの。さらに遡れば、60年代には、キャバレーに「フィリピンバンドがいて、それと一緒に客を踊らせるための司会がいる店」があって、その司会がDJの起源。
 だから80年代初頭のディスコではその「司会」の伝統が残っていて、新宿あたりのディスコでは「みんな盛り上がってきましたー!」「フリーフード、フリードリンクはお早めに!」なんてことを喋っていた。日本のDJとはそういうものだった。
 ところがある時、ニューヨークの『54(フィフティー・フォー)』という伝説のディスコが出したレコードは、曲と曲が混ざって繋がっていた。これにみんなビックリして、どんどん真似をするようになった。新宿や池袋あたりのディスコは相変わらずお喋りをしていたけど、六本木は喋らないDJが多かったので“繋ぎ”に進化して、独特の文化を創っていった。
 当時、僕の友達はスクエアビルの周りをオープンカーでグルグル回っていた。1周400mくらいのルートを一晩中回る。そんな車が20台も30台もいた。その目的はもちろんナンパ。
 夕方6〜7時は「満ち潮」と言って、女の子たちがスクエアビルのディスコへ行くために前からやって来る。その女の子たちに「ねぇ、乗らない?」なんて声を掛ける。そして夜の11時くらいになると、今度は「引き潮」と言って、ディスコから駅の方へ帰る女の子たちが出てくるので、また「おー、また会ったね!乗らない?」なんて。
 80年代はそんな「ナンパ」自体が新しく、浮ついた感じがむしろ良いと考えられていた時代だった。

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三木哲夫さん(国立新美術館副館長)の

『美術の街、六本木』の話

 国立新美術館の敷地は東大の生産技術研究所があった跡地。さらにその前は「ハーディ・バラックス」と呼ばれる米軍の敷地だった。その名残りで、今でも米軍のヘリポートが残っている。
 さらにその前は陸軍の連隊本部があった。その建物の一部は今でも残っていて、かなり初期の鉄筋の建物として保存されることになった。軍隊が使い、東大が使い、そして現在は美術館の一部。結果としては非常に良い場所にあったと思う。
 美術館は都市型である方が望ましい。街で生活をしている中で、フラッと入っていける方が良い。ところが東京は地価が高すぎて、なかなかそういう美術館が実現しづらかった。
 でも今回、私どもの国立新美術館、六本木ヒルズの森美術館、そして3月末にオープンするサントリー美術館。この3つの美術館が1つの地区に集中する機会を得たので、「六本木アート・トライアングル」という活動を行うことになった。
 実はサントリー美術館の横には三宅一生さんが手掛ける『DESIGN SIGHT』もオープンするし、少し足を伸ばせば『大倉集古館』や『根津美術館』、もうちょっと足を伸ばせば『岡本太郎記念館』もある。そんな数々の美術館や画廊を載せた地図を製作し、無料で配布している。
 歩いて行ける距離の範囲で、六本木地区には数多くの美術施設がある。今回、六本木に3つの大きな美術館が集まったのは本当に偶然だけど、これを機会に少しでも多くの人が美術に触れられるよう、様々な企画を練っているところ。

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門野久志さん(『レッドシューズ』代表)

『レッドシューズ』の話

 89年11月に福井から東京へ出てきて『レッドシューズ』で働くようになった。最初は『レッドシューズ』がどんな店か知らなかったけど、、古いジュークボックスから流れるローリン・グストーンズの「Under My Thumb」にガツン!とやられた。ありとあらゆる人種が集まってドンチャン騒ぎしているお店がとにかく格好良くて「ここで働くしかない」と思った。
 ローリング・ストーンズがお店に来た時はすごい賑わいだった。ロン・ウッドをはじめとして、バックメンバーのバーナード・ファウラーやボビー・キースなど、ローリング・ストーンズを支える人たちがお店に毎晩来てくれて、街全体が「ローリング・ストーンズ祭り」になっていた。
 いろんなミュージシャンが来たのは「東京に行ったらレッドシューズが良い」って口コミが広まったおかげらしい。だから普段、本国で顔を合わせる機会のないミュージシャン同士がレッドシューズでバッタリ会う、なんてこともちょくちょくあった。
 レッドシューズがオープンしたのは81年12月。そして僕が入ったのが89年11月。あの頃の六本木は人が溢れかえっていて、歩道を歩けないくらいだった。毎日がお祭りで、今の週末よりもあの頃の平日の方が人は多かった。
 先代のオーナー、松山勲がいわゆる「名物オーナー」で、『インクスティック』『ミントバー』など、東京のナイトクラブシーンを創ってきた人だった。その最初のお店が『レッドシューズ』だった。
 実は最初「カフェ&バー レッドシューズ」にしようとしたらしい。ところが看板に入らないので「&」を省略して「カフェバー」になった。これが「カフェバー」の最初。その後、世の中に広まったカフェバーは、BOSEのスピーカーだったり、ネオン管だったり、アールデコの内装だったり、どこもレッドシューズの「スタイル」を真似て作られた。でもお店の空気は簡単に真似できるものじゃない。レッドシューズこそが唯一無二の「カフェバー」だったと思う。

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■ 放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
10'08" Wild Is Love Shirley Horn Mercury PHCE-10029
21'19" Alone Together Peggy Lee EMI Music 72435-33343-2-1
31'30" You Must Have Been A Beautiful Baby Vic Damone Capitol 7243 8 59957 2 9
40'43" Be Carefull It's My Heart Helen Carr Bethlehem COCY-75740
46'42" Give Me Simple Life Marian Montgomery Decca UCCC-9048


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