SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2007年1月27日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「下積み時代」

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 どんな仕事でも「下積みの時期」が必ずありますよね。新人としてその仕事を始めてから、一人前になるまでの下積み時代。辛くて苦しいことも多々ありますが、それを乗り越えなければ一人前にはなれないわけで。
 その辛くて苦しかった下積み時代も、後になれば笑い話です。当店のバーカウンターでも、そんな「下積み時代」のお話を、グラスを傾けながら楽しそうに話しているお客さまがいらっしゃいました。本日はそのお話を、ここで少しだけご紹介させていただきます。


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飯田覚士さん(元世界WBAスーパーフライ級チャンピオン)

『“ボクシング予備校”後』の話

 『元気が出るテレビ』の「ボクシング予備校」に応募したのは大学生の時。すでにアマチュアとしてボクシングはやっていたけど、ああいう形でスポットライトを浴びる機会がなければ、プロになることはなかった。大学を卒業したら普通にサラリーマンになるつもりだったし。
 そもそもボクシングを始めたのは大学に入ってからで、大学の4年間だけボクシングをやろうと思っていた。20歳も過ぎて、いまさらプロボクサーになりたいなんて考えもしなかった。でも「ボクシング予備校」をきっかけにプロを目指したくなったのだから、僕の運命を変えた番組だった。
 ところがプロになって戦い続けると、あの番組に出ていたことも常に背負わなければいけなかった。「普通の選手」として見られることは一度もなかったし、「チャラチャラしやがって」「どうせ派手に遊んでんだろ」と言われたこともあった。嫌がらせというほどではないけど、常に色眼鏡で見られた。
 それに対して、僕は「いつか見てろよ」と腹の中で思うことしかできなかった。ボクシングは実力の世界。チャンピオン・ベルトを巻くことで認められるしかない。だからそういう気持ちも逆にエネルギーに変えて頑張った。
 番組は「プロテストに合格するまで」という企画だったので、その後、プロとしてボクシングを続けるか、そこで辞めるかは僕の自由だった。でも当時、一歩外に出ればみんなに指を指されて、電車にもまともに乗れない、ぐらいのブームに巻き込まれていた。だから「これでプロの世界に行って一旗揚げないと、自分で納得できない」と思い、ボクシングを続けることにした。何年かして「あの人は今」みたいな番組に呼ばれるようになるのだけは絶対にイヤだった。
 もう1つ、ボクシングを続けた理由は、ボクシングが好きだったから。そこでやめたら後で絶対に後悔する。とりあえず2〜3年ガムシャラにやってみて、それでチャンピオンになれそうもなかったら就職しよう。そんな気持ちだった。
 ボクシングは奥が深いし、上は高い。4回戦、6回戦、8回戦とランクが変わればまったく違った部分が出てくる。「一通りのことはやったな」という満足感を味わったことは、ついに一度もなかった。だからこそボクシングが面白くて、ずっと続いたのだろう。

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野崎洋光さん(広尾『分とく山』)の

『料理人の下積み』の話

 子供の時は食べ物の好き嫌いが多かった。たとえば一番嫌いなものは「卵焼き」。ウチの卵焼きは砂糖を入れてそのまま焼いた堅い卵焼きだったので、全然おいしいと思わなかった。
 今でもハッキリ覚えているけど、あれは小学校5年生の時だった。隣の家の子守りをしたら、御飯をご馳走してくれた。そこで卵焼きが出てきて、嫌々ながら食べたら、すごく美味しい。刻んだニラが入っていて、水でのばした小麦粉が入っていて、いわばお好み焼きのような卵焼きだった。
 その時に気付いたのが「自分で作ればいいのか」ということ。家族も多かったし、さすがに「自分のために作れ」とは言えない。でも自分で作れば、自分の好きなように作れる。それが僕の料理人としてのルーツ。
 それからは自分の弁当などは自分で作るようになった。得意だったのはソーセージの油炒め。自分で食べたいおかずだけを入れられるのが嬉しかった。その後、高校生くらいになると、離れの自分の部屋に「居候」するヤツに晩御飯を作って出したりもしていた。
 料理人になる、とハッキリ決めたのがいつだったのかは覚えていない。ただこっちの栄養学校に入った時には、なんとなく食に関する仕事をしたいとは思っていた。学校へ行く途中に3畳くらいの小さなお茶漬け屋があって、「お茶漬け屋なんてやりたいなぁ」と考えたりもした。
 料理の世界は厳しいと言われるけど、世渡りの術というか、うまくコミュニケーションを取る方法を知っていれば難しくはない。狭い厨房に大勢の人間が働いているので、どうしても寛容さはなくなってしまう。そこでうまくコミュニケーションを取れれば、厳しくもなんともない。
 誰だって自分がリズム良くやっている仕事を中断させられたらイライラする。言葉使いが悪かったり、返事をしなかったり、そんな失敗を下の子はわからないが故に犯してしまう。そこさえクリアできれば上手く行くはず。
 僕らもそうだったけど、それができないから先輩に叱られる。寒いからとポケットに手を入れたら箸でピシッと叩かれたり、「あのですね……」「お前、誰と口聞いてんだ!」なんて。そんな風に、僕らに対してキチッとしつけをしてくれた先輩がいたおかげで、今の僕らがある。
 逆に、僕らが若い子に教える立場になると「幼稚園」だと思う。「返事をしましょう」「挨拶をしましょう」なんて幼稚園のレベル。でもそれがクリアできれば、あとはうまく行く。
 若い頃は「もう辞めよう」と毎日考えていた。ところが先輩も上手いもので、そんな雰囲気を察するとすかさずフォローする。それで「じゃあ、もう1日だけ……」と思っている内に、20年以上が経っていた。

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堀内敬子さん(女優)の

『劇団四季』の話

 私が女優になったのは、劇団四季のお稽古場を見学に行ったのがきっかけだった。すごく一生懸命なみんなを見て「たとえ舞台に立てなくてもいいから、一緒に稽古したい!」と思った。それくらいみんなの熱意はすごかった。
 そしてオーディションを受けて劇団四季に入って、1年間は基礎練習だけ。同じ研究生でも優秀な人は早速と舞台に立つ人もいたけど、私はずっと勉強をしなければいけなかった。
 望んで加わった四季のお稽古場だったけど、驚かされたのは舞台を作るスピードだった。1ヶ月ちょっとで舞台を作ってしまうその速さは衝撃的だった。私は、1つの舞台に1年くらい掛ける、くらいの気分でいたから。
 お稽古の時は「できる人?」と聞かれて手を挙げないとチャンスがない。チャンスは与えられている。それを掴むかどうかは自分次第。たとえできなくても手を挙げる、ぐらいの根性が必要だった。
 そうやって掴んだ私の初舞台は『李香蘭』だった。もちろんアンサンブル。メイン・キャストの邪魔をしないよう周りをウロチョロしていた。そして李香蘭や川島芳子の勉強をして、突然「代役を」と言われてもできるように準備をしていた。
 そうやって準備をしておいても、チャンスが巡ってくる確率なんて1回の公演で1度あるかないか。それでも準備をしておかないと、チャンスは掴めない。みんなそうやってチャンスを掴んで、メイン・キャストになっていく。
 私が初めて役をもらったのは『アスペクツ・オブ・ラブ』というミュージカルだった。この時は貼り紙に書かれた配役に私の名前があった。ただしその貼り紙は、お稽古でダメだったらすぐに書き換えられる。昇格するか降格するかはお稽古の感覚ですぐにわかった。
 そうやって頑張っている内に、私は恵まれていた部分もあったのか、いい役をやらせていただけるようになっていった。ただ、その間も常に自分のレベルを上げていなくてはいけないので、熱いお湯の中にずっといるような気分だった。

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本広克行さん(映画監督)の

『映画監督になるまで』の話

 もともと僕は、普通に理工系の大学へ進むつもりだった。ところがある時、バイクで事故ってしまい、全治1ヶ月という怪我を負ってしまった。ちなみにその時に運び込まれた病院は中野病院と言って、中野美奈子アナウンサーの実家だった。
 その入院生活で『キネマ旬報』という雑誌を差し入れしてもらって、パラパラとめくっていたら「君も映画監督になれる!」みたいなことが書いてある。受験も事故で全部パーになってしまったこともあり、僕は今村監督の「横浜放送映画専門学院(現:日本映画学校)」に進むことにした。
 その専門学校の卒業制作ではプロデューサーを務めたけど、自分としては相当優秀なプロデューサーだったと思う。お金の管理もちゃんとできたし。ちなみに監督じゃなかったのは「監督なんてそう簡単にできるもんじゃない」というのがその学校の教えだったから。
 そんな風に、入学時に258人いた生徒が卒業する時には100人いない、というとても厳しい学校だった。でも僕は親の反対を押し切って無理矢理出てきているので、帰るに帰れない。それで教務課の先生も「本広くんは頑張ってるから……」と気を遣ってくれて、電通のアルバイトを紹介してくれた。
 電通と言っても「電通映画社」というCM制作会社。そこで1年働いて「CMはやっぱり水が合わない」ということで、共同テレビで深夜番組を作るようになった。最初の頃にやったのが『IQエンジン』。そして『アメリカの夜』という映画の技法を紹介する番組を担当したのがきっかけとなって、ドラマを担当させてもらえるようになった。
 当時の僕はまだ25〜26歳くらい。監督が若いと周りの技術者が全員年上なので、その文句が全部モロに来る。それを全部聞いてなだめていく言葉やテクニックは相当学んだ。特に重要なのは「キレイな土下座」。とんでもないミスはこれまでにもずいぶんしてきたけど、誠心誠意で頭を下げれば、大抵の人は許してくれた。
 そんな腰の低すぎる監督なので、僕の現場は「どこに監督いるんですか?」と言われてしまう。撮影中もあまり座ったりしないで、ずっと立って役者さんの側で言葉を聞けるようにするよう心掛けている。

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浅尾美和さん(プロビーチバレーボーラー)

『ビーチバレー』の話

 父がバレーボールをやっているのを見て「私もやりたい」と憧れたのが小学校2年生の時だった。男の子がお父さんとキャッチボールをするように、家の前でバレーボールを教えてもらった。家の前が川だったので、たもを用意していつでもボールを拾えるようにしてあった。
 そして高校はバレーボールの強い学校へ進学。「春の高校バレー」にも出場して、そこで「ビーチバレーやってみない?」と勧誘された。でもその時はビーチバレーというスポーツをまったく知らなかった。
 その後、ビーチバレーの試合を見たり、宮古島の合宿に連れて行ってもらったりする中で、どんどんビーチバレーの魅力にハマっていった。そして「このスポーツでオリンピックを目指そう!」と思うようになった。
 ビーチバレーは開放感が気持ちいい。ずっと体育館でバレーボールをやってきたから、その開放感は衝撃的だった。もちろんインドアのバレーボールも大好きなんだけど、ビーチバレーにはまた違った魅力がある。コートの中には2人しかいないので、全部のことを自分たちでやらなくてはいけなかったり、頼れるのはペアの相手だけなので自分もしっかりないとダメだとか、そういう部分も楽しい。
 ビーチバレーのコートは体育館よりも1m小さい。そして何よりも違うのが、足元が砂になっていること。初めてやった時は「私、こんなにバレーボールができないんだ」と驚いた。それから風が吹いてくるのも難しい。ちょっとした風でもボールがブレて、普通のパスが繋がらない。
 私の身長は172cmだけど、私よりも小さい人が海外で活躍している。それを見て「私も同じように活躍できるようになりたい」と思った。ビーチバレーで重要なのは下半身。海外の選手は無駄な脂肪が全然無くて、筋肉がすごい。それだけの筋力があるから砂の上でも低い姿勢を維持できるんだと思う。
 今、私が取り組んでいるのは「体幹を鍛える」トレーニング。砂の上やジャンプした時にバランスを取るには、体幹がすごく大切になる。やればやるほどプレーに反映されるので、今は楽しくて仕方がない。
 体幹を鍛えるには、重りを持っての腹筋や背筋。それから横の筋肉を鍛えるために15〜20kgくらいの重りを持って動かしたりしている。このトレーニングをするようになって、体つきもけっこう変わった。2年前の自分の写真を見ると、びっくりするほど細い。
 私としてはずいぶん変わったけど、海外の選手に較べればまだまだ。もっと鍛えないと勝てない。

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■ 放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
9'06" My Heart Is A Hobo Lena Horne BMG BVCJ-37390
18'33" I Was A Little Too Lonely Nat King Cole Capitol CDP 7 48328 2
26'28" Just One Of Those Things Anita O'day Verve POCJ-1914
37'11" This Can't Be Love Four Freshmen Capitol 7243 4 95002 2 8
47'24" I'll Get By Peggy Lee Capitol 7243 8 74179 22


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