SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2006年12月9日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「浅草」

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 いらっしゃいませ! AVANTIでバーテンダーをしております、古出と申します。
 実は今日、私は地元・浅草にある、以前に働いていたお店へ来ています。そのお店のバーテンダーが急病(たいしたことはないらしいのですが)のため、私は1日だけピンチヒッターのために呼ばれた、というわけです。
 そして今回は「せっかくの機会なので……」という小穴さん勧め(押しつけ?!)もあって、浅草のバー『ロイド』の常連のお客さんのお話を、ここでご紹介させていただくことになりました。浅草の良さが伝わるお話をチョイスしましたので、どうぞお楽しみ下さい!


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内田正さん(弁天山 美家古寿司)の

『浅草今昔』の話

 浅草には浅草寺というお寺があって、お寺だから五重塔や宝蔵門、雷門などがある。その中の1つに「鐘撞堂」という施設があって、その鐘撞堂を作るために小さな山が作ってある。その小山を「弁天山」と言う。それでその小山のある地域も「弁天山」という地名で呼ばれるようになった。だからウチに限らず、あの界隈で商売をしている人は「弁天山下○○」と名乗っている。
 ウチは1866年創業と聞いているので、今年で140年目くらい。寿司屋の開祖と言われる南千住の華屋与兵衛の下で修行して、浅草で「美家古」という名前の寿司屋を開いたのがその始まりだったとか。それから5代掛かって私の代になった。
 それだけ長い間お店をやっているけど、お店は浅草寺から土地を借りている身。だから毎月、浅草寺の土地部という部署に地代を納めている。その浅草寺の所有している土地が6つに分かれているので「浅草六区」という呼び方がある。
 観音様の前が一区、その横が二区、三区が弁天山で、四、五、六と続く。その中でも6番目の「六区」が興行街として有名になった。「六区(ロック)」と言ってもロックンロールとは関係なくて、浅草寺の土地の一角、という意味。
 その浅草六区が一番賑やかだったのは、テレビが始まる前までだった。映画とレビューが上演され、大宮伝助というコメディアンがいたり、浪曲の木馬亭、女剣劇などが行われ、いつも人が集まっていた。当時は11時を過ぎてもまだまだ人がたくさんいて、ウチも「11時に映画がハネて(終わって)もまだ食事ができる」ということがウリだった。
 ところが戦争で浅草が焼けて、浅草寺の本堂も再建することになった時、六区にあった「ひょうたん池」という池も無くなってしまった。「街の中から水が無くなるとその街は衰退する」なんて言い伝えもあるけど、その池が無くなった頃からテレビが全盛になり、小さな小屋がどんどん潰れて、浅草に来る人はだんだん少なくなっていった。
 ただ、今はおかげさまで観光客が大勢来るので、その観光客で保っているようなところがある。そしてその観光客は外国人の方が非常に多い。特に多いのが中国、韓国、東南アジアの方々。昔はカタコトの英語が喋れればなんとかなったけど、今は日本から一番近い国々の言葉も覚えておかないと商売にならない。

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内田宗孝さん(浅草神社)の

『浅草神社と三社祭』の話

 そもそも浅草寺は、漁師さん2人が江戸裏(今の隅田川)で漁をしている時に観音様を拾い上げ、自分の家で祀ったのがその起源だとされている。
 そして浅草神社は、その2人の漁師さん、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)兄弟と、「2人が拾ったモノは観音様だ」と教えた土地の文化人、土師真中知(はじのまなかち)さんを土地の功労者として氏神様にして祀った神社。つまりご神体が3人なので「三社様」と呼ばれる。
 浅草寺ができたのは推古天皇の36年と言うので、西暦でいうと628年。そこからずっと下って、鎌倉時代の頃に浅草神社ができた、という沿革らしい。そういう次第なので、「三社祭」を浅草寺の観音様のお祭りと勘違いしている人も多いけど、それは違う。根っこの部分では浅草寺と浅草神社は同じでも、厳密に言えば「三社祭」は浅草神社のお祭りであって、浅草寺のお祭りではない。
 三社祭は金曜日から日曜日に行われる。木曜日の夜にご本社3体のお神輿に「御霊入れ(みたまいれ)」をして、普段は浅草神社の社殿にまします神様を、お祭りの時だけお神輿にお移しする。そしてその御霊の乗ったお神輿をお祭りで担ぐ。
 お神輿はかなり大きくて、1トン以上の重さがある。一度に担げるのは120〜130人くらいだけど、「肩代わり」と呼ばれる交代要員が必要なので、最低200〜250人掛かりで担ぐことになる。
 三社祭の時は驚くほど各地から人が集まって下さって、3日間通算で100万とも150万とも言われる人たちが集まる。見物の人も多いけど、中には担ぎに来る人も大勢いる。でも基本的に三社祭は氏子のお祭りなので、氏子四十四ヶ町の半纏を着た人たちが担ぐもの。だから氏子以外の人が担ぐために、氏子町会に知り合いを作って、そこに頼んで半纏を貸してもらうケースも多いらしい。
 今はホームページも立ち上げて、お神輿を3Dで見られるようにしたり、お神輿の順路を前もって知らせたりもしている。お神輿の順路は、地図に赤い線で書き込むことから「朱引き」と呼ばれていて、その朱引き図へ時間を加えたものをホームページに掲載している。また本社神輿の渡御する日曜日には、GPSを使ってリアルタイムで「お神輿の現在地」を表示するような試みも去年から始めた。

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乃り江さん(浅草芸者)の

『浅草芸者』の話

 浅草の芸者は、今現在45名が在籍している。その内の4名は「幇間さん(太鼓もち)」と呼ばれる男性。この幇間さんは浅草にしかいない。
 浅草の場合、芸者衆も幇間衆も「置屋(おきや)」に所属している。料亭はまず「見番(けんばん)」という連絡事務所に「何月何日に芸者衆をお願いします」と依頼し、見番から置屋に連絡が来る、という仕組み。
 芸者の数はずっと減り続けている……と言われていたけど、実はここ2〜3年は若い人の希望者が多かった。高校生が修学旅行で東京に来た時に、見番にやってきて「芸者さんになりたいんです」と言って来る子もいた。ウチでもそんな若い子が1人いて預からせてもらっている。
 そんな事情で、芸者と言えばそれなりの年齢の人を思い描く人が多いと思うけど、最近の浅草芸者はかなり若返っている。18〜19歳の半玉さんも多い。半玉という呼び名は、昔は玉代が半分だったことから名付けられた。
 半玉は振り袖を着て、京都の舞妓さんと同じ感じ。そういう格好は若くないと似合わないので、浅草でも一時は居なくなったこともあった。でも今は45名の芸者の内4人もいるし、来年もお披露目予定の子がいる。高校を出たばかりの18歳の子もいて、本当に一気に若返った。
 浅草にいらっしゃるお客さまは層が広くて、偉い人から近所の方までいろいろ。普段から挨拶をしているような地元仲見世の方々も気軽に利用して下さっているところは花柳界の中でも珍しい存在だと思う。そもそも芸者衆がみんな浅草に住んでいるので、普段の姿も着飾った姿も見られている。そば屋さんに「○○ちゃん、稼いでどいで!」なんて本名で呼ばれたりもする。
 お正月や三社祭の時は忙しい。普段のお座敷は2時間だけど、そういう時は1時間にして、何軒もお座敷を回る。だからお正月などには、黒い出の衣装を着た芸者が走って移動している姿を見かけることもあると思う。

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中井秀範さん(吉本興業)の

『浅草花月』の話

 吉本興業は1912年創業なので、来年で創業95年。もちろん創業は大阪だったけど、創業10年で早くも東京進出していた。最初は小屋を借りての興行だったけど、昭和10年くらいには小屋を買い上げ「浅草花月」という劇場で毎日公演していた。
 当時は柳家金語楼さんなども吉本所属で、浅草花月に出演していた。弟弟子の柳家三亀松さんも同じ。2人は芸風もまったく違うけど、きっと師匠の三語楼さんがよっぽど懐の深い人だったのだろう。金語楼さん、三亀松さんといえば、当代一二を争う人気者。その2人が吉本の所属だったから、よっぽどお客さんも入ったのだろうと思う。
 益田喜頓や坊屋三郎の「あきれたぼういず」も吉本だった。それからモダンダンスの中川三郎さんも吉本。だからプロダクションとしては戦前の方がシェアは高かったかもしれない。
 実は劇場も「浅草花月」だけじゃなくて、浅草に2〜3軒、錦糸町にも「江東花月」、横浜にも花月があって、全国で32軒くらいの小屋があった。ただ、それらが戦争で焼けてしまい、芸人さんも廃業してしまう人も多くて、縮小せざるをえなかった。
 そして今年、約60年ぶりに吉本が浅草へ戻ってきたのが『よしもと浅草花月』。あまりに間が空きすぎて「吉本が東京のお笑いの聖地に殴り込み!」なんて言われたりするけど、実は出戻りだったりする。
 今は「雷5656(ゴロゴロ)会館」を借りて、週末だけの興行を行っている。仁鶴、三枝、カウス・ボタン、いくよ・くるよ、のりお・よしお、といった連中から、品川庄司、麒麟、オリエンタルラジオなどのイキのいい若手まで、バラエティに富んだ出演者がいるのが吉本の一番の強みだと思う。
 僕たちの読みでは「シニア層が中心になるだろう」と思っていたけど、蓋を開けてみたら若いお客さんがけっこう多くて驚かされた。浅草は「お年寄りや観光客が中心」というイメージがあるけど、お客さんを呼べる興行をキチッとやれば、若いお客も呼び込める。
 東京はこれだけ人がいるので、300〜500人程度の劇場が1つ増えたくらいで、競合になるはずもない。むしろ相乗効果で底上げになると思うので、常駐の小屋をぜひとも復活させたいと思う。

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熊谷英雄さん(藤浪小道具)の

『歌舞伎と小道具』の話

 天保12年(1841年)、「天保の改革」を行った老中・水野忠邦による命令で、歌舞伎芝居の中村座、市村座、森田座(後の河原崎座)、いわゆる「江戸三座」が浅草へ移転することになった。そして翌天保13年、芝居小屋を移した地を猿若町と命名し、その後は「猿若三座」として芝居小屋を中心に町は大いに賑わった。
 その猿若町という地名は今はもう無く、「浅草6-2-6」なんて住所になってしまった。この住所はウチの会社のある場所だけど、昔の写真なんかを見ても、会社の目の前に芝居小屋が建っている。
 ウチの初代は嘉永6年(1853年)に市村座から初めて仕事をもらい、小道具業を始めたとされている。平成18年で創業134年。江戸歌舞伎の歴史は約370年だから、実にその1/3以上の時間、小道具を提供し続けてきている。
 古典歌舞伎では案外小道具の消耗は少なくて、1ヶ月(25日間)の興行でも途中で壊すということはめったにない。それだけ大事に使ってもらっているとも言える。そして興行が終わってから次に使う時までに、傷んでいるモノを修理する。
 たとえば鶴屋南北の『四谷怪談』であれば、伊右衛門がお岩さんから赤ん坊を預かる場面がある。その預かった赤ん坊が突如として人間から石の地蔵に変わるので、その仕掛けを施した小道具を「抱き子」と呼んでいる。これは役者さんが使い慣れていないと困るので、昔ながらの作り方や寸法で今でも作っている。
 そういうモノはこれからもちゃんと引き継いでいかなければと思う。

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■ 放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
9'38" A Little Bit Madeleine Peyroux Emarcy / Rounder UCCM-9241
20'01" Nothing I Do Jamie Culum Universal 987 3 825
22'26" Rock Away Jesse Harris Plankton VIVO-218
41'23" Day In Day Out Bobby Coldwell Sin-Drome SD8932
47'54" Sweet Pea Amos Lee Blue Note TOCP-70060


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