レオナルド・ダ・ヴィンチは西洋絵画史の中で画期的な存在……というよりも、西洋絵画史そのもののスタートと言える。
日本で言えば、工芸と美術は分離しないまま明治時代まで来ていた。実用品である襖などが芸術的な価値を認められてはいたけれど、実用を離れた芸術が追い求められることはなかった。しかし西洋では実用を離れて、芸術を芸術として鑑賞するという態度が早くから生まれた。その最初がダ・ヴィンチだった。
西洋で言えば、中世に「神を描いた装飾品」で素晴らしい作品はたくさん生まれていた。でもそれらの品には作者の名前があまり残っていない。それは「作品」ではなく、あくまで職人の「仕事」として捉えられていたから。そこから脱却して芸術家という概念を創り出したのがダ・ヴィンチだった。
ダ・ヴィンチが行った最大の発明は「絵画」。具体的には「キャンバス絵画」を発明した。それまでは壁に描かれていた絵画を壁から取り外して、持ち運びできるようにしたのがダ・ヴィンチだった。それによって「絵画を贈る」など、絵画が芸術品として流通できるようになった。
実はダ・ヴィンチはけっこう描きかけの作品が多い。これはダ・ヴィンチが元祖オタクで、けっこう飽きっぽかったせい。でも逆にそれが良かった部分もあると思う。ある技術的な問題が解決して「このまま行けば描ける!」と思うところまでは仕事をするから。でもおそらくダ・ヴィンチは、そこで「あとはこのまま完成させるだけか」と思うと興味をなくしてしまっていたのだろう。そうなるとダ・ヴィンチは絵を完成させずに放り出してしまった。
技術的な問題をクリアできなかった作品もたくさんある。それは主に絵の具の調合だった。絵の具の調合に失敗した絵で、完成はしたけれど後世に残っていない絵も、大作を含めてたくさんある。たとえば『アンギアーリの戦い』というフィレンツェ庁舎の壁画は、描いている側から絵の具が落ちていった。一応完成はしたものの、どんどん絵の具が落ちていき、フィレンツェ市民から「税金を返せ!」と裁判を起こされ、ダ・ヴィンチが負けたという記録も残っている。ダ・ヴィンチにまつわる逸話はそんなお話ばかり。
絵の具の調合に失敗しかかりながらも、なんとか後世に残ったギリギリの作品が、あの有名な『最後の晩餐』。あの絵はつい最近修復されたけど、修復される前はまるで皮膚病のような画肌だった。
ダ・ヴィンチの場合、とにかく絵を描くのが大変だったはず。普通は「この絵の具を使って」と考えるのに、ダ・ヴィンチは「今までの絵の具じゃダメだ!」と言い出す。これは大変な道のりだっただろう。
その挑戦がたまたま全部うまく行ったのが『モナリザ』だった。むしろそれくらいしか全部うまく行った作品はない。それでも手の部分などは未完だと言われている。普通に考えれば十分に描かれているけど、見る人が見ればわかるらしい。