電子メールと手紙は別のモノ。電子メールは「メール」であって「レター」じゃない。どちらかといえば「メッセージ」に近く、「通信をする」ということ。基本的に違うモノなので、僕は「近頃の若い人は……」なんて言うつもりはないし、電子メールと手紙を比較することに意味はないと思う。
僕でさえ、手紙を書くのは嫌なもの。嫌だから手紙がどんどん電報みたいになっていって、用件を2〜3行書くだけになっている。僕は主にハガキを使っているけど、住所の方が本文よりも長かったりする。
それだけ文章が短くなってしまったのは、1日平均50通以上の手紙を書いているから。100通を超えることもしばしば。住所も全部手書きで書いている。ラジオの仕事をしているので、手紙を書いて住所を覚えて、投書をもらった時に「あ、あの町か」とイメージを膨らませるためにそうしている。
個人情報保護法じゃないけど、手紙だと個人情報が……いやメールの方が……とか、そもそも「メール」と「レター」の違い、「メッセージ」と「コミュニケーション」の違いなど、「手紙論」が書けなくなっているのが今の状況。手紙のつもりでメールを書いている人もいて、その人にとってはメールが手紙なのだから、それに対して「そんなもの手紙じゃない!」と言う筋合いのモノじゃないし。
僕自身の手紙は「前略」もなければ、季節の挨拶もない。それが相手にとって必要なら書くけど、それで評価が高くなるということもない。書くのは当人の趣味なんだから、そこで押しつけるのは良くない。
昔、銀座の伊東屋が、包み紙にチャーチルの「申し訳ないが、今は短い手紙を書いている時間がない」という有名な一節を入れていた。伊東屋や丸善には文房具、すなわち手紙の道具が昔から揃っていたお店。それくらい「手紙の周辺」で楽しんでいる人がたくさんいる。
万年筆などの筆記用具を選ぶ、紙を選ぶ、封筒を選ぶ、そして切手を選ぶという楽しみもある。「この人にはこの切手にしよう」なんて考えると、せっかく選んだ切手に消印を押されたくなくなって、わざわざ郵便局へ持っていき「ココへ押して下さい」と注文をつける人もいるくらい。
実際、僕のところに来た手紙には、80円切手を使わずに、10円や20円の切手を組み合わせて、僕好みの切手を揃えてくれた手紙も届いたりしている。しかもそういう手紙は、消印が切手のデザインを邪魔しないところに指定してある。こういう楽しみ方は想像を絶する。
昔、滝沢修さんや宇野重吉さんが元気だった頃の劇団民藝も「劇団のお知らせ」で切手に凝っていた。中の「次はこの芝居をやります」みたいなお知らせを読んで、はじめて「だからこの切手なのか!」と分かるという凝り方。こんな風に、手紙の周辺を楽しむことこそが、手紙の楽しみ方とも言える。