1989年11月に、同僚の小牧次郎と崩壊したベルリンの壁を見に行った。ちなみにベルリンの壁が崩壊したのは11月6日くらいだったと思うけど、その2週間後にはベルリンにいた。
僕は「全部面倒を見るから、ドイツ語は俺に任せろ」と言っていた。小牧サンも気を遣ってくれて「石原クン、○○が欲しいんだけど」と必ず僕を通すので、交渉ごとは全部僕がやっていた。
でも実は、コーヒーが欲しければ「カフェ、カフェ」と連呼するだけ。タバコが欲しければ「シガレッテ、シガレッテ」と言って、銘柄は黙って指さすだけ。これでなんとか4日間を乗りきろうと思っていた。
そしてついにやってきたブランデンブルグ門。東西ドイツの真ん中にあって、壁の一部が崩壊したとはいえ、まだ勝手に行き来はできない状態だった。そこで僕たちも1日ビザを取得して東側に入ったのだったと思う。
ベルリンの東側に入り、僕たちはブランデンブルグ門の立ち入り禁止区域の柵に寄りかかって、門を見学していた。すると「あっ!」という叫び声が。小牧サンが柵の内側にカメラや地図を落としてしまっていた。
まだ一応、東側の兵士が銃を持って巡回しているので、さすがに勝手に柵を乗り越えて拾うわけにもいかない。そこで僕が「ちょっと聞いてきます」と言って、30歩ほど離れた場所にいた兵士に話しかけた。
これぞ火事場の馬鹿力と言うべきか、完全に錆び付いていたドイツ語の歯車が回り始める。流暢なドイツ語で「すまないが友人がカメラを落としてしまったので、取ってもいいか?もしダメなら君が取っていただけないだろうか?」と語りかけた。
ところがこれが、まったく通じない。もう1回言ってみたんだけど、どうやってもダメ。途方に暮れて「英語はわかる?」と聞いてみた。すると英語ならなんとかなりそうな雰囲気。そこでカタコトの英語でカメラのことを説明しだした。
すると背後から「石原……お前、英語で喋ってないか?!」という声が。ハッと振り向くと、小牧サンが鬼のような形相で僕を睨んでいた。英語がペラペラの小牧サンは、ベルリンくらいの大都市ならどこでも英語が通じるのに、僕に気を遣ってずっと我慢していたらしい。それ以降、小牧サンは一切僕を通さずに、ホテルでもレストランでも、英語で好き勝手に、そして僕以上に複雑な交渉をしていた。
旅が終わって日本に帰ったら、翌日がちょうど部会という、部に所属する人間全員が出席する会議の日だった。連絡事項が一通り終わり「他に何か報告事項のあるヤツ?」と部長が聞くと、小牧サンが静かに手を挙げた。「みなさんに報告があります、石原のドイツ語はまったく通用しません、以上で報告を終わります。」
僕の社会的生命の何%が失われて、僕と小牧サンのドイツ旅行は終わった。