SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2005年6月4日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「スポーツ 一瞬の煌めき」

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 昨夜の日本対バーレーン戦、ご覧になりましたか? 私はお店が終わってから大急ぎで帰って、テレビの前で一生懸命応援してました。小笠原選手のゴール、最高でしたね!
 今日は当店にいらっしゃったお客さまも、みなさん昨日の試合を見ていたのか、スポーツの話題でとても盛り上がっています。しかも一流の選手だった方が、現役の頃の「もっとも思い出深い瞬間」を語って下さいました。
 今日はそのお話をここでご紹介させていただきます。


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井原正巳さん(サッカー解説者)の

『ドーハの悲劇』の話

 ドーハの時は、最初に引き分けて、次に負けて、そこから盛り返して「最後のイラク戦に勝てば悲願のW杯出場だ!」という状況だった。
 対戦相手のイラクは予選敗退が決まっていたので、余裕で勝てるはず……くらいの気持ちだった。今にして思えば、それが少し甘かったのかもしれない。1つ前の韓国戦に勝って、みんな大喜びして、まだ1試合残っているのに、もうW杯に行ったような気持ちになって、その隙を最後に突かれたような気がする。
 あの最後のロスタイム、ショート・コーナーからセンタリング上げられて同点に追いつかれた。そのとき僕は違う選手のマークに付いていて、僕の前でシュートを打たれた。だからボールが入ってくる軌道はモロに見えたし、シュートの後は「頼む!出てくれ!」と祈る気持ちだった。
 でもそのボールはポストに当たってゴールに吸い込まれていった。その瞬間「ああ、これでW杯には行けないんだ」と。
 あの試合は日本が先制して、後半に1-1に追いつかれて、中山のゴールで2-1と勝ち越して、最後のロスタイムで……という展開。1-1になった時はまだ「時間もあるし大丈夫」という確信があった。
 ただ、ちょっと気になったのが「イラクの選手はなんでこんなに頑張るのかな?」ということ。どうも当時、イラクは戦争の問題なんかもあってフセイン大統領から「絶対にアメリカW杯に出てアメリカにイラクの国旗を掲げてこい」と厳命されていたらしい。でも日本に勝ったところでW杯出場はできないわけで、そんな状況でも目の色を変えてプレーする彼らが不思議だった。
 同点ゴールを決められて「もうダメだ」と諦めてしまったのも、今にして思えば甘かった。ただ、どうせ追いつかれるならもう5分前だったら、諦めていなかったと思うけど。
 あの試合でサッカーは最後まで何が起こるかわからないということを改めて感じた。そしてやっぱり僕たちに力が足りなかったということだったんだと思う。その悔しさを持って4年間やった成果がフランスW杯に繋がったと思うし、日本サッカー全体にあの経験は生きていると思う。

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広沢克実さん(プロ野球解説者)の

『最後の打席』の話

 3勝3敗で迎えた2003年日本シリーズ第7戦。9回表、2アウトランナーなしという状況で僕は代打として打席に立った。得点はすでに5-1。ダイエーの日本一まであと1アウトだったので、球場にはダイエーファンの「あと1人!」という大歓声が響いていた。
 実は、僕は星野監督に「このシリーズを最後に引退します」と伝えてあった。そして星野監督も辞めることが決まっていた。その星野監督が「9回2アウトになったら、どんな状況でも打席に立て」と言ってくれた。それで実現した最後の打席だった。
 ダイエーのマウンドに立っていたのは和田クン。先発して、そのまま1失点で9回まで投げてきた。疲れはあったかもしれないけど、あと1人で胴上げという状況ならアドレナリンが出て疲れなんか関係ない。
 ダイエーのキャッチャー、城島クンも「三振を取るにはおあつらえ向きのバッターが出てきた」と考えたに違いない。三振を取って、マウンドに走り寄って、みんなで王監督を胴上げして……そんな青写真ができていたと思う。
 そして投じられた第1球、内角のストレートを空振り。これは「初体験」と感じるくらい速かった。かつてヤクルトに石井一久というピッチャーがいて、今はメジャーで活躍しているけど、その石井の全盛期を思い起こさせる速さだった。打席で「これは金本も檜山も打てないわけだ」と思った。
 続く2球目はチェンジアップ。このストライクからボールになるチェンジアップに、なぜか僕のバットは止まってボールになった。これでカウント1ストライク1ボール。
 そこで僕が考えたのが「最後だから2回、バットを振ろう」ということだった。
 3球目、城島が三振を取りに来ているらしく、またもやストライクからボールになるチェンジアップが来た。このチェンジアップは阪神のバッターがみんな空振りしてきた、キレのある変化球。ところがそのシリーズ、ずっと調子が悪かったはずの僕のバットがなぜか止まる。「振ろう」と思っているのに「ボールだ!」と思った瞬間、バットを引ける。
 「これはうまくいけばバットに当たるぞ」そんな色気も出てきた4球目。2球続けてチェンジアップがボールになったから、次は初球に見たすごいストレートに違いない。そう考えてイチ、ニのサンでバットを振ろうとした。ところが城島はそれを見透かしたかのように、またチェンジアップ。
 この変化球に普通ならクルッと回ってしまうところを、なぜか体が反応して、ボールにバットが当たった。そのときの感覚は「あ、当たった」という感じ。最後の打席だったからいろいろ考えることもあったし、打球の行方を見る余裕がなかった。
 それでもバッターの習性として1塁に向かって走っていった。そして観客席を見ると、ボールを捕ろうとしているお客さんがいる。その瞬間に思い出した。「あ、あの当たりであの角度ならホームランだったな」と。
 今まで何千打席と打ってきたけど、あれは本当に不思議な感覚だった。僕が打ったんじゃないような気がした。最後の打席にホームランで終われるなんて、それが日本シリーズの最年長ホームランだなんて、信じられない気持ちだった。
 普通、引退が決まっている選手は消化試合で気を遣ってもらって、キャッチャーと「何がいいですか?」「真っ直ぐで」なんて小声で話して、それでヒットになってもアウトになっても家族に花束をもらって……なんていうのが良くある光景。でも僕の最後の打席は22歳の和田とのガチンコ勝負。しかもホームランだった。これは嬉しい。
 実はあの日本シリーズ、第6戦まで家族が見ることになっていた。雨で1日順延していたので、月曜日になってしまう第7戦はさすがに無理なハズだった。でも女房が「どうしても見ていく」と言って、子供は中1と小5だったけど、学校を休んで見ていってくれた。
 そして試合後、家族の泊まっているホテルへ行って、そこで初めて子供たちに「パパ、今日で野球をやめるから」と打ち明けた。ところが子供たちは僕が着くまでアニメを見ていたらしく、僕の言葉にも「うん、わかった」と気もそぞろ。僕の話が終わったら大急ぎでテレビの前に戻ってゲラゲラ笑っていた。
 それを見て女房曰く「あんたがこういう風に育てたのよ」と。これには参った。

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尾車浩一さん(尾車部屋親方/元大関琴風)

『昭和59年9月場所千秋楽』の話

 昭和59年9月場所の千秋楽に小錦と取った一番。この場所は蔵前国技館最後の場所で、小錦は幕内下位で多賀竜と優勝を争っていた。ちなみにその時、僕は大関で、小錦と多賀竜が優勝を争っていたということは上位陣が情けなかったということでもある。
 それでも千秋楽は上位陣同士の対決をするはずなので、僕は朝潮と対戦するはずだった。ところが組まれた取り組みは「琴風-小錦」「朝潮-多賀竜」。これには「参ったなぁ……」と頭を抱えた。なにせその頃の小錦といえば破竹の勢い。数々の力士が吹き飛ばされるのを目の当たりにしていたから。
 一方、優勝争いをしている多賀竜は小錦よりも白星が1つ多く、小錦が負けさえすれば多賀竜の優勝が決まる、という状況だった。そして僕と小錦の取り組みは多賀竜と朝潮の1つ前だったので、僕は多賀竜と同じ支度部屋で準備をしていた。
 するとトイレで多賀竜が僕に「頑張って下さい」とお願いしてくる。「い、いや……オレが頑張らなくたって、お前が勝てば優勝できるんだから……」と言っても「いや、自分はダメです」とすがるような目で見る。仕方がなく大嘘つきになって「よし、任せておけ!」と宣言した。
 と言ってはみたものの、もちろんそこにはなんの根拠もない。しかも僕の相撲は突進するだけなので、相手に合わせて対策を練ることもできない。小錦とは稽古場でも肌を合わせたこともなかったので、どうなるかもわからない。とりあえず若い衆に「おい、消毒液と赤チン用意しとけよ」と、顔を張られて口の中が血だらけになる覚悟だけを固めて土俵に上がった。
 そして土俵で相対した小錦の大きいこと大きいこと。仕切ってたらまわしも見えないし、まるで山のよう。「こんなの、どうしろって言うんだよ!」と土俵の上で叫びたくなった。
 そう思って取った相撲は、思いもかけず大相撲。僕は翌年の昭和60年に引退しているので、当時はすでに膝などがギリギリのところまで来ていた。ところがその僕が、最後にすくい投げでその大相撲を制した。
 その瞬間、蔵前国技館は大騒ぎ。多賀竜なんて自分の取り組みがこれからあるのに、もう泣き出している。花道を引き揚げていくと、当時の古い親方衆が勢揃いで僕を出迎えて「ようやった!」「お前は日本を救った!」と褒めちぎる。本当は、僕はその相撲に勝ってようやく10勝5敗で、大関として自慢できるような成績じゃなかったのに「優勝した時だってこんなに褒められなかったぞ」と思うくらい褒められた。
 蔵前国技館の最後でもあり、僕が現役最後に一番力を振り絞れた相撲でもあり、いろんなことが重なって思い出深い一番になった。小錦と会うと今でもその一番の話をする。僕は小錦とこの一番の話をする時に「アンタのおかげで本当にいい思い出を残せた」と感謝の気持ちを持っている。
 ちなみにその後は、引退するまで小錦に吹っ飛ばされ続けたけど。その時の恨みを3倍にして返された感じ。

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伊藤みどりさん(プロフィギュアスケーター)

『トリプル・アクセル』の話

 15歳、中学3年生の時に、練習ではトリプル・アクセルを跳んでいた。ところが本番で転んでしまい、それは「幻のトリプル・アクセル」に。
 それから足をしっかり治して、88年のカルガリー五輪で5位入賞。その後、世界ツアーを回るようになる。すると男子にはトリプル・アクセルを跳ぶ人がたくさんいる。それを見て「そういえば昔やってたから、私にもできるかも……」と思い出した。
 そして翌年、89年の世界選手権で女子としては初めてトリプル・アクセルに成功。ギネスブックにも載って、初優勝した。たしか、今でも女子でトリプル・アクセルをオリンピックの舞台で跳んだ人は私しかいないはず。浅田真央ちゃんが出てきて、やっと次の人が現れそうだけど。
 難易度の高いトリプル・アクセルは、4分間の演技の一番最初に跳ぶ。そして、そこで失敗したら次はこうする、成功したらこうする、という可能性を1000通りくらい考えておく。体調や意気込みによっても演技構成は変わってくる。だから今までいろんな試合に出てきたけど、同じ演技をしたことは一度もない。
 しかもその演技構成の変更は「失敗したからどうする」と頭で考えているようでは間に合わない。どうするかを体が覚えるまで練習する。これは私に限らず、フィギュア選手なら全員がそうやっている。
 アルベールビル五輪の時も、実は調子はあまり良くなかった。だから序盤のトリプル・アクセルを失敗してしまう。そこで様々な選択肢の中から「後半にもう一度トリプル・アクセルを跳ぶ」という選択をした。そして成功して銀メダルを獲得した。
 もし2度目も失敗していたら「あんな状況であんな難しいジャンプを選ぶなんて」と怒られていたと思う。それでも、もしトリプル・アクセルを跳ばなかったら、挑戦しなかったことを後々までずっと後悔したはず。だから身体が自然にトリプル・アクセルを選んだのだろう。
 4年に1度しか与えられない五輪で演技するチャンスは、わずか4分間。だからこそ悔いの残らない演技がしたかった。

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田中雅美さん(スポーツキャスター)の

『アテネ五輪女子200m平泳ぎ決勝』の話

 アテネ五輪では北島康介クンの金メダルに感動した。特に私たち選手は隣でその努力を見ているし、期待されて結果を出すことの難しさもわかっているので、あの金メダルは本当にスゴイと思った。
 私は大会2日目に100m平泳ぎの予選があって、3日目にその準決勝。その準決勝で負けて決勝には進めなかった。でもそれほど落ちこまなかったのは200m中心に練習してきて、調子的にも悪くなかったから。むしろ200mに賭ける決意を固めた。
 そして大会5日目に行われた200m平泳ぎの予選。自分の思っていたよりも良い記録が出て、これはいけるかもしれない、と。そして6日目の準決勝で2番手の記録が出て、決勝進出が決まった。
 準決勝では2番手の記録だったとはいえ、優勝候補は力を温存したのかそれほど記録が出ていなかったので、決勝ではタイムを伸ばして来るだろうと。それでも3位以内に入るチャンスはかなりあった。その時に考えたのが「今の自分の力を出し切って、とにかく自分のレースを信じてやろう」ということ。相手を見ながら、ということはまったく考えなかった。
 そして決勝では5/100秒の差の4位。これは距離にすれば第一関節分らしい。
 その結果を電光掲示板で見た時に、絶望感というか「もう1回ラスト10mをやらせて!」なんて考えが頭の中をグルグル巡っていた。そして、それと同時に満足感もあった。
 だから決勝後にインタビューを受けている時に涙が溢れてきたんだけど、その涙は「4番で悔しい!」という気持ちと「ここまでやってこれた、世界と互角に戦うことができた」という満足感が入り交じった涙だった。
 ちなみに3位だったのはドイツのアンネ・ポレスカという選手。彼女は私の隣のコースだった。ラスト50mのターンの時、彼女の姿が見えて、私は後半型だったので「これくらいの差なら絶対に抜ける!」と思った。その後は隣を見ずに自分の泳ぎだけに集中したら、第一関節分の差の4位だった。そのターンの時のポレスカの映像が今でも頭に焼き付いている。
 4位という結果が悔しかった一方で、満足感もあるのは「シドニーからアテネまでの4年間で一番速いタイム」だったから。それは人生で2番目に速いタイムでもある。
 自分の中で結果をどう感じるかが大事だな、と今は思っている。褒めてあげるのは自分自身だし、自分がどれだけやったかは自分が一番知っているのだから。そういう部分でアテネではすごく良い勉強をさせてもらった。

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放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
8'43" Alright, Okay, You Win Peggy Lee Capitol 7243 5 35210 2 8
20'34" The Trouble With Me Is You John Pizzarelli STASH PHCE-1023
32'38" I Remember You Eydie Gorme CBS/SONY 32DP 696
40'55" 'S Wonderful Nicole Henry VENUS TKCV-35346
47'44" Put On A Happy Face Marlilyn Maye RCA BVCJ-2027


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