SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2004年9月18日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「遺跡」

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 遺跡を見て、大昔の人がそれを造ったり、その場所で生活していたことに思いを馳せると、何とも言えない感慨がわき上がってきます。1000年以上の時を越えて、同じ場所に立ち、同じ物に触れるというのは、ある種の奇跡と言えるのではないでしょういか。
 そんなロマン溢れる「遺跡」の話に興じられているお客さまのお話を、今日は少しだけここでご紹介させていただきます。悠久の時の流れを感じながら、ゆっくりとお過ごし下さい。


image ■ 近藤二郎さん(早稲田大学エジプト学研究所所長)

『エジプトの遺跡』の話

 エジプトの遺跡では、地表面に4万年前の石器が転がっている。遠くから見ると山のすそ野が黒く見えて、石器が山のように散らばっている。そこは“石器を作っていた場所”だったらしく、その時の石器がそのまま地表に残っている。
 あるいは2000年くらい前、ローマがエジプトを支配していた頃の遺跡は、土器が何十cmも堆積している。その上を歩いていくというので、初めてエジプトに行った時はずいぷんビックリした。その土器は大した物じゃないって言うと語弊があるけど、やっぱりエジプトの王朝時代を研究していると「ああ、ローマか」なんて。実はローマは土器を大量生産していたので、質も王朝時代の方が良かったりする。
 エジプトの場合、19世紀の初めくらいから調査隊が山のように行っているので、新しい遺跡の発見というのはなかなか難しい。それでも毎年何個くらいのペースで見つかっている。
 面白いのは、19世紀にヨーロッパ人が遺跡を発見して、その報告を書いて、今は場所がわからなくなってしまった……という遺跡も山のようにあること。そういう遺跡を「Lost Tombs(ロスト・トゥームス)」と呼ぶ。報告書には「○○さんの家から何メートル」なんて書いてあるんだけど、その家なんてもう無いし。たとえあったとしても、方角がわからなかったり。そういう遺跡はだいたい新王国時代のお墓が多くて、幅5mくらい、前庭部も5〜10m四方くらいの小さなもの。
 そういう遺跡を探していると、地元の作業員が目の前から急に消える。下のお墓を掘り当てて、いきなりそこに落ちるから。何度かそう言う経験をした。中に入ると、綺麗に保存された墓があって、壁もキレイに残っていたり。
 かと思えば、遺跡に人が住んでいることもある。私が発掘しているルクソールの西側では、岩窟の墓を家畜小屋にしたり、人が家として利用していたりする。最初は学者も気付かずに通り過ぎるんだけど、その土地を調べている間に親しくなって、家に呼ばれて地下室を見せてもらったら墓だった、とか。
 エジプトにはその昔、非常に栄えていた地域が2カ所ある。1つは北のカイロの側にあるサッカラやメンフィスの地域。もう1つが南のルクソール、かつてはテーベと呼ばれた都の西側。この周辺が遺跡の宝庫。その辺りは人もいっぱい住んでいて、彼らは遺跡がある場所もよく知っている。ただ、遺跡があるとなるとどかなくちゃいけなかったりするので、お役人には黙っているだけ。
 道路が急に陥没して急に陥没して遺跡が見つかったなんて騒ぎの時に、お役人の影でそこの住民に話を聞くと、「子供の頃、そういう所で遊んだから知ってるけど、他にも何百もある」なんて。

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image ■ 花谷浩さん(奈良文化財研究所)の

『キトラ古墳』の話

 キトラ古墳の穴をのぞいている僕の写真が新聞なんかにもずいぶん載ったけど、あの穴は盗掘の跡。古墳が発見された時は、外から見れば盗掘されたかどうかは大体わかる。そこでその穴にドリルで穴を開けて、カメラを入れる。キトラ古墳に関してそういったことが行われたのが20年前だった。
 あの場所は奥に安部山という集落があって、古墳の下にある道1本で繋がっている。古墳の調査を始めるとその道を塞いでしまうので、ずっと本格的な調査を始められなかった。結局、反対側の谷に道を造るのに15年かけて、やっと調査ができることになった。
 キトラ古墳自体はけっして大きくない。中の石室も奥行きが2m40cmで幅が103cm、天井も120cmぐらい。その小さな古墳が有名になったのは、壁に絵や天文図がキレイに残っていたから。同じ明日香村の高松塚だったら四方の壁に描かれている四神の内、3つしか残っていなかった。それがキトラ古墳の場合は4つがすべて残っていた。さらに天井には星座が。四方の壁には、3つずつに分けられて十二支も描かれていた。
 古墳の内壁に絵が描かれていた理由は定かではない。中国でも四神の絵が描かれていたり、高句麗でも天井に星の絵が描かれていたりするので、そういう思想が日本にも伝わっていたのだろう。でも、絵のある古墳と無い古墳の違いは、まだわかっていない。
 キトラ古墳は、かつては「亀虎」という当て字も使われていたけど、今ではほとんどカタカナ。実はすぐ近くに「北浦」という字名があって、「きたうら」が訛って「きとら」になったのではないか……と考えられている。特に文献に出てくる名前というわけじゃなく、昔から地元ではそう呼ばれていた、というのが由来。
 江戸時代に書かれた飛鳥観光のガイドブックには、高松塚は登場するけどキトラ古墳は出てこない。古墳は江戸時代から一種の観光名所で、本居宣長なんかも見学していたらしい。

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image ■ 河野英輔さん(TBS『世界遺産』ディレクター)

『トロイ遺跡』の話

 わりと考古学界では常識になりつつあることだけど、シュリーマンが発見した遺跡は、彼が勝手に「これがトロイだ!」と言っただけ。もちろん彼なりの根拠があって掘ってみて、たしかにすごい遺跡が出てきたんだけど、「これだけのものが出てきたんだからトロイに間違いない」と。当時は考古学に科学的な調査がなかった時代だったので、そう主張されたらみんなが信じてしまった。
 シュリーマンがその遺跡を発掘したのは1873年頃。もともとホメロスという詩人が書いた「イリアス」という叙事詩があって、そこにはトロイア戦争という大戦争が描かれていた。はたしてその大戦争は実際にあった事なのか、それともただのフィクションなのか、考古学界では長らく論争が続いていた。それを子供の頃に聞いて、いつか掘って見つけてやろうと考えたシュリーマンは、やはり特異な才能の持ち主だったのでは。
 シュリーマンは子供の頃にそう考えて、発掘のために財をなしたと言われる。ただ、本人がもう生きていないので、本当のところはどうだったのかよくわからない。シュリーマンが死んだ後に、彼の生涯についての評価はいろいろあって、例の有名な美談から、たまたま稼いだ金で掘ってみたらたまたま見つけただけ、という人もいる。しかも本来であればトルコのものだった出土品を、半ば騙すような形でドイツに持ち帰ってしまい、二度とトルコに戻らなくなってしまった、とか。ちなみにその品は、今は流れ流れてロシアにある。
 その遺跡が見つかったヒッサリクの丘には、繰り返し街が造られ続けたというのは間違いない。一番古いもので紀元前2500年くらいだったと思う。昔はあそこが入り江に面した場所で、2つの河口が交わる場所だったために、川からの堆積物がどんどん流れてくる。さらに地中海から黒海に抜ける唯一の通り道の入り口だったため、繰り返し街が造られる、ということが行われたのだろう。
 シュリーマンがトロイ遺跡の場所をどれだけ解き明かしたのかはわからないけど、今「トロイ遺跡」と呼ばれている場所については、シュリーマンの前にも発掘をしていた人がいた。それくらい昔からの有力候補地の1つだった。ただ、前に発掘していた人が資金難で、シュリーマン悪人説によれば、シュリーマンがその人を騙して発掘権を手に入れたのだとか。
 それでも、考古学がシュリーマンの発見によって進歩を大いに促されたというのは、誰もが認めるところらしい。もちろんシュリーマンの発掘のやり方、出土品の扱い方、どれも今の常識で考えれば非常に雑だった。でも「掘ればすごいモノが見つかるかもしれない」ということを世に知らしめた功績はすごく評価されている。
 「シュリーマンは実にいい加減なヤツだ」なんて言ってる人も、よくよく話を聞いてみれば「でもオレも最初はシュリーマンに憧れていたんだよね」と言う。

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image ■ 木村政昭さん(琉球大学理学部教授)の

『与那国海底遺跡』の話

 その遺跡は与那国の沖100mくらいの場所にある。
 遺跡のようなものがあると分かりだしたのは1986年。地元のダイバーが「遺跡ポイント」と名付けて、ダイビングのポイントとして知られていた。我々は1992年にそのポイントの調査を始めた。
 とはいえ、最初の5年は本当に遺跡かどうか、かなり疑っていた。よく写真で紹介される階段状の地形は、岩が波に叩かれて剥がれてもできることがある。実際、与那国島の陸にも同じような階段構造が見受けられる。「それが水の中にあると人工物に見えるんですよ」と言われて、「ああ、そうでしょうね」と納得していた。
 ただ、陸でできたその階段状の地形が水に沈んだのはなぜか、そのメカニズムを説明しなければいけない。もちろん人間が造った可能性だってゼロではない。その辺りをハッキリさせるために調査を進めた。
 目を付けたのは海底鍾乳洞。鍾乳洞というのは絶対に陸でしかできないことが分かっている。そこで海底の鍾乳洞を探してみたところ、最初に沖縄本島の沖で見つかった。しかもその鍾乳洞の中からは石器が出てきた。そしてその次に与那国でも海底鍾乳洞が見つかった。
 与那国の海底鍾乳洞で炭素14を使った年代測定をしてみたところ、1〜4万年前ぐらいにできた鍾乳洞であることがわかった。ということは、その時期、与那国の沖のその辺りは陸であったことは間違いない。
 でもそれだけではまだ、陸であったことがわかっただけで、人工的なものか自然のものかはわからない。特に人工的なものとは思えなかったのは、階段状とはいえ、1つ1つの段が大きすぎて、人が登るのは無理そうだったから。
 ところがある時、南米で「ロロ神殿」という遺跡が発掘されて、黄金仮面など大変な発見がなされた。その遺跡の展覧会が日本で開かれて見に行った時に、黄金仮面よりもロロ神殿の復元図に目を奪われた。その姿は、あまりにも与那国の海底遺跡に似ていた。
 同じように人間が登れなさそうな石段があるんだけど、よくよく復元図を見ると裏に人が上るための階段が造られている。もしかして……と思って、確認してみたら、与那国の遺跡にも同じような階段が造られていた。
 1〜4万年前というは、一番最近の氷河時代。その頃は世界的に、海面が現在よりも100mくらい下がっていた。その後、地球温暖化によって海面が上がり、現在の位置で止まったのが数千年前。だから地表には数千年前より新しい文明が残っていて、それ以前の文明は水面下にあるのでは……というのが私たちの仮設。

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image ■ 三好和義さん(写真家)の

『敦煌』の話

 中国には30もの世界遺産がある。紫禁城、兵馬俑、万里の長城……とにかく多い。  全部回って写真を撮っているんだけど、残りはあと2つ。今度は雲南省奥地にある揚子江の源流に行く予定。もう1カ所が北朝鮮との国境にある、古墳の中の壁画。
 噂の敦煌も撮ってきた。とにかく大変で、撮った時には感無量だった。中国人のカメラマンなら専属の人がいるんだけど、外国人にはまったく許可されていなかった。でも「ここを撮らないと始まらない」と思っていたので、最初からずっとアプローチを続けて、3年を掛けて「ここの洞窟で1平方メートルだけなら撮っても良い」という許可を取った。
 撮影の時に横についていた警備の人は絶対にカメラマンだったと思う。何ミリのレンズを使っているかをよく見ていて、「それ以上引いちゃダメ」とかうるさく言われた。逆に寄る分には何も言わなかったので、壁画まで15cmまで寄って撮ってみた。
 敦煌はやっぱり凄かった。1000年も前ものが目の前にあって、もの凄く色もキレイ。「あれ?これ昨日描いたわけ?」というくらいキレイだった。写真で分かりづらいけど、絵が立体になっている。その立体の部分を撮るために15cmまで寄った。そんな絵がびっしり四方に描かれている。文章では読んだことはあったけど、それをあそこまで近寄って取れたというのは1つの収穫だった。
 敦煌は「極楽浄土はこんなところにあったんだ」という感じで、描いた人の気持ちがすごく伝わってきた。ただの観光で行ったのならそこまで感じることはなかったかもしれないけど、写真家になって良かったと思った瞬間だった。
 砂漠の真ん中にあったお陰で、1500年前のものが色褪せることなく崩れることもなく、そのまま残っている。世界遺産としてもここは別格で、一番最初に無条件で選ばれた。今は人が入るから傷み始めていて、何年か後には完全に封鎖されると言われている。たぶん、ただの噂では済まない話だと思う。

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放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
8'20" Better Luck Next Time June Christy Capitol CDP 7243 4 95448 2 6
19'05" Just In Time Dean Martin Capitol 7243 8 5454 2 2
32'28" I'm Beginning To See The Light Peggy Lee Capitol 7243 8 54543 25
42'24" Wrap Your Trouble In Dreams Jackie Paris Emarcy EJD-3047
47'44" Here In My Arms Ella Fitzgerald Verve 821 580-2


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