SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2004年5月22日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「スポーツ英才教育」

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 野球のイチロー、ゴルフのタイガー・ウッズ、F1のミハエル・シューマッハなど、世界で一流のスポーツ選手は子供の頃から英才教育を受けているケースが多いみたいですね。
 雑誌の記事によると、サッカーの世界では「ゴールデン・エイジ」という言葉があって、9〜12歳の頃にサッカーの基本をちゃんと覚えないと、それ以降では技術の習得にかなり苦労するのだとか。サッカーに限らず、他のスポーツでも同じような事情があるのかもしれません。
 今日はそんなスポーツの英才教育を受けて一流の選手になったお客さまや、指導者として子供に教えた経験のあるお客さまのお話を、少しだけここでご紹介させていただきます。


image ■ 沢松奈生子さん(元プロテニスプレーヤー)の

『テニスのコーチ』の話

 テニスを始めたのは5歳の時……と自分では信じ込んでいたんだけど、写真を見たら“左手にほ乳びん、右手にラケット”なんてのもあった。それまでキャリアに含めてしまえば0歳から。我ながら恐ろしい家に生まれたモノだと思う。
 5歳の時には毎日テニスの練習していた。ただ、比較的いろんなスポーツもやらせてもらっていて、野球、サッカーなんて男の子のスポーツもやったし、ピアノ、お習字なんて習い事にも通った。ピアノは中学3年までやっていたんだけど、最後は先生に「もうテニスに絞ったら?」と言われてしまって。その時は「こっちが月謝を払って習っているのに!」と腹も立ったけど、今にして思えばちゃんと考えていてくれた先生だったのだろう。
 中学3年の時にはもう全日本ジュニアで勝ったりしていたので、それでいてピアノを習ったりしている私は周りから見れば「ふざけるな!」という感じだったと思う。でも、子供の時から1つのことしかやっていなかったら、負けたりした時に逃げ場がなくてテニスが嫌いになっていたかもしれない。どうせプロになったら調子が悪かろうが負けようが逃げ場はないので、そんな世界は大人になってからで十分。10代の、特に前半の頃はいろんなことをやって、逃げ場を作ってやることが長続きする秘訣だと思う。
 5〜10歳までドイツにいた間は父とドイツ人のコーチに習い、日本に帰ってからは日本人のコーチのお世話になっていた。自宅にコートがあったので、朝5時30分くらいから練習をして、7時30分くらいまで練習して学校へ行く。私は誰に感謝しなければいけないって、その朝練までも付き合ってくれたコーチに感謝しなくちゃいけない。コーチはサラリーマンをしていたので、夜は遅いし、朝練が終わったら会社に行く。それでいて、1日たりともコーチが休んだことはなかった。私はひそかに「コーチは会社で寝ているに違いない」と思っていたけど。
 コーチは土日もウチに来てくれて、1日中教えてくれる。そんな生活が、私が10歳の時にドイツから帰ってきて25歳で引退するまでの15年間、ずっと続いた。それでいて会社ではちゃんと業績を残していて、いまやダンロップスポーツの社長になっている。しかも私のコーチ業は無給。私にとっては本当に神様のような人。
 一度、バーでお酒を飲みながら本音を聞いた。「僕が人生で“すべてを掛けてでもやりたい!”と思ったのは奈生ちゃんのテニスだけだなぁ……」って。選手は選手自身の力だけじゃなくて、どれだけ周りの人に恵まれるかにも左右される。そしてその運に恵まれて初めて、世界に羽ばたける選手が生まれるのだとつくづく思う。

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image ■ 三浦雄一郎さんと三浦豪太さん(プロスキーヤー)の

『三浦家のスキー教育』の話

(雄一郎さん)
 ウチには上の娘、雄太、豪太の3人の子供がいる。ハッキリ言って、上の2人には幼い時からスキーの教育には力を入れて、お金を掛けた英才教育を施した。フランス留学、アメリカ留学、個人コーチを雇い、オレゴンに家を買って、ヨーロッパを巡る。そんな事を一生懸命やっていた。
(豪太さん)
 僕はスキーが大嫌いだったので……寒いし服はチクチクするし。周りの人たちは「やれ!」っていうんだけど、父だけは「イヤだって言ってるモノを無理にやらせても仕方がない」って言ってくれたので、スキーを避けていた。
 でも、あるとき父が「スキーは雪の上で遊ぶもの、雪は雲が落ちてきたもの、だからスキーを履くことによって、空を飛ぶことができる、スキーは足につけた魔法の翼なんだ」というノルウェーの神話を話してくれた。その話を聞いて、少しはスキーをやるようになった。
 5〜6歳でスキーを始めて、小学校はしばらく東京。周りにスキーをする子供なんかいなかったから、ちょっと天狗になっていた。だから札幌の小学校に転校した時も、夏の間に「オレは三浦雄一郎の息子だからスキーがうまいんだぜ!」なんて自慢していた。ところが冬になったら、地元のヤツらのうまいのなんの。低学年の子にも負けてしまうほどだった。
 そんな事もあって、アルペン競技にはあまり興味を持たなかった。父も「ポール潜らなくてもいいから、1日中スキーで遊んでろ」と言ってくれたし。それですぐに練習をサボって、裏の立ち入り禁止区域で崖や沢を飛び降りる遊びに熱中していた。
(雄一郎さん)
 ……で、まあ、上の2人に金を掛けすぎたおかげで、三浦家の家計は破綻していたわけで。でも留学三昧だった上の2人から良いことばかり聞いてるから「なんで僕だけ?!」とゴン(豪太さん)も噛みつく。そこで「我が家の家業はスキーだけど、お前ぐらいの才能では留学させても意味がない、おとなしく日本で勉強してろ」と諭した。
 するとジャッキー・チェンの大ファンだったゴンは「スキーがダメなら少林寺で修行したい!」と荷物をまとめだした。「じゃ、行ってきます」「いや、パスポートもないのに?!」「なんとかする」と引く様子もない。それで結局「何かスキーの種目で日本3位までに入ったら留学させてやる」というところまで折れた。
 そこから豪太はモーグルに転向して、目の色を変えて練習を始めた。
(豪太さん)
 そんなことがあって、小学校を卒業する間際にやっとアルペンの全国大会で3位になった。さらに日本に入ってきたばかりのモーグル競技も始めて、10人ちょっとしかいなかった第2回全日本大会に出場。大人に混じって11歳の僕が3位になった。
(雄一郎さん)
 さらにその夏、オーストラリアの国際大会に連れて行ったら、なんと4位。「僕も海外へ行く資格あるでしょ?!」と言われて、「しょうがない、金はないけど……」としぶしぶ留学させることになった。

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image ■ 三浦雄一郎さんと三浦豪太さん(プロスキーヤー)の

『三浦家のスキー教育』の話の続き

(豪太さん)
 当時、スキー留学すると言っても、モーグルなんてちゃんと教えているスキー学校は皆無。それで「どうせなら兄と一緒のところで」と、ソルトレイクのローランド・ホール・スキー・アカデミーというスキーの名門校へ転入した。
 それからずっと5〜6年はアルペンを続けていたんだけど、やっぱりどうにもモーグルの方が楽しい。そこで「僕はモーグルをやる!」と言うと、コーチから友達から、みんなに「あんな悪の道に入るのか?!」と止められた。まるでモーグルがスキーのダークサイドみたいな勢い。
 みんながそう言って止める中で、父だけが「おお、おもしろい、やれやれ」と。「ゴンの性格からしてモーグルの方が向いてるだろう」と言って応援してくれた。
 僕は父に反対されると思っていた。曲がりなりにもお金を掛けてスキー留学までさせていた息子が、今まで学んできたすべてを捨ててモーグルをやるなんて、許してくれるとは思わなかった。モーグル競技なんて、まだオリンピックの正式種目にもなっていない頃だったし。
 父から聞かされたノルウェーの神話じゃないけれど、モーグルという競技はスキーの持つ自由な楽しさを追求する競技。そんなことを考えると、父が昔やっていた“ハチャメチャなスキー”が競技になった、と言えるのかもしれない。
 ちなみに姉と兄は「モーグルなんて言ったって、コブの中でダンスしてるだけじゃあ……」と相手にしてくれなかった。まあ、オリンピックに出ようがエベレストに登ろうが、しょせんは年功序列の世界。永遠に僕は三浦家の中で、一番下のペーペーなので。

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image ■ 野村克也さん(社会人野球シダックスGM兼監督)の

『少年野球の指導』の話

 ヤクルトの監督を引き受ける前の話だけど、ウチの克則が目黒東という“リトル・シニア”(中学生のリトルリーグ)のチームで野球をしていた。ところがこのチームで父兄と監督の間にちょっとトラブルがあって、「どうせなら野村さん、あなたがチームを作りませんか?」と頼まれ、港東ムースというチームを作って子供たちに野球を教えることになった。
 私は本来、あまり大きな声を出すタイプじゃないんだけど、中学生に教えていると自然に大きな声が出てしまうのは不思議な体験だった。こちらは「こんなことがわからないのか!」「こんなことができないのか!」とイライラしてしまう。でも考えてみれば、相手は子供なんだから出来なくて当たり前。でも自分の思い通りにならないから、声は大きくなるし、ついカッカしてしまう。「野球の原点は少年野球にある」という事を思い知らされた体験だった。
 少年野球とは言っても、やっているのはスポーツ。球を投げる、打つ、あらゆる場面で体力が問われる。ところが中学生は成長期。そこで筋力トレーニングは絶対にできない。せめて高校生になって骨格が固まってからじゃないと、骨の成長が止まってしまう。そういった方面の専門家じゃないので詳しいことはわからないけど、そういう話を聞いてランニングを中心に体力作りをさせた。
 そして技術面では、まったく何も教えられなかった。たとえば「ステップした方の膝が開くから、もっと閉じて」とアドバイスしたとする。すると子供は神経は100%そこに行ってしまい、他が全部ダメになってしまう。もう金縛りにあって体が動かなくなったかのよう。ここが一番困った。
 だから教えられるのは「野球は楽しいよ」ということだけ。子供たちに「野村の下で野球をやった」という想い出が残っただけで十分だったと思う。変にいろいろ教えようとしても、伸び盛りの選手の成長を止めてしまう。高校、大学と野球を続けるにつれて、嫌でもいろんな問題意識は高まってくるから、中学生までは楽しくやることが一番大事。
 克則が堀越高校へ入ってからは、今度は逆にまったく教えられなくなった。克則も「学校に迷惑が掛かるから」と帰ってこなかったし。万が一、庭でちょっと話しているところを「教えているのでは?」と勘ぐられたら、学校にどんな迷惑が掛かるかわからない。特に甲子園へ出場するようなチームはその手の告発が多い。だから高校の3年間、克則はほとんど家に帰ってこなかった。
 それでも親としては、スタンドから試合を見て「ここをこうすれば……」と思うことは多々あった。「プロは(たとえ親であっても)教えてはいけない」なんて、本当にナンセンスな規則だと思う。最近は少しずつ緩和してきているけど、今でも高校野球は一番厳しい。「いつかは高校野球の監督を」というのが僕の夢なんだけど、今のままじゃ永遠に無理。

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image ■ 荒川静香さん(フィギュアスケート選手)の

『フィギュアスケート教室』の話

 先日の世界選手権の優勝、実は今ひとつ実感が湧かない。他人の優勝だったら「すごい!」と素直に賞賛すると思うんだけど、自分がなってしまうと「?」という感じ。どちらかというと、優勝という結果よりも、自分の演技の出来に満足している。
 優勝が決まった瞬間は(信じられない……)というのが正直な気持ちだった。周りの人は“金メダリストを囲む反応”だったけど、私もその囲んでる人の1人、みたいな。「金メダルを獲るんだ!」という気持ちで臨んだ大会じゃなかったので、まるで他人事のようだった。
 私がフィギュアスケートを始めたのは、スケートリンクを見に行った時に、同い年くらいの子がコスチュームを着てヒラヒラと舞っているのを見て「私もあれを着たい!」と憧れたのがきっかけ。「じゃあお教室に通ってみる?」と親もあまり深く考えずに習わせてくれたんだと思う。
 本格的に習いだしたのが小学校1年生の時。最初の内は1つ1つの技を覚えていくのが楽しかった。ところが中学生くらいになると、トリプルも跳べるようになり、もう一通り技は出来るようになってしまう。そうすると「維持する」「質を高める」という段階になり、練習もだんだんつまらなくなっていった。
 私が習っていた教室はグループレッスンだったので、小学生も大学生も一緒。当たり前のように「はい次」「はい次」と進められて、無理矢理やっている内にいつの間にかできるようになるという感じだった。
 ちなみに“フィギュアはお金が掛かる”という事を知った時は、もう手遅れだった。自分に子供が出来たら、こんなに不経済なことは絶対にやらせない。リンク代は掛かるし、靴は3ヶ月でダメになる、コーチ代も掛かる。本当は自分の足にピッタリ合った靴の方が良いんだけど、私はずっと既製の靴でやってきたせいか、既製の靴に足が合ってしまった。それでいまだに既製の靴を使っている。

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放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
9'59" This Can't Be Love The Pat Moran Quartet BETHLEHEM COCY-75743
22'18" It's A Big Wide Wonderful World Peggy Lee Capitol 7243 4 95450 2 1
29'54" It's A Wonderful World Frank Sinatra Reprise WPCP-4681
41'46" There Will Never Be Another You Beverly Kenney EMI TOCJ-5384
47'59" I Won't Dance Mitzi Gaynor Verve POCJ-2660


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