SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2004年1月24日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「ザ・タイガース」

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 サザンでもミスチルでもグレイでも、いまでこそ「バンド」といえば「ボーカルと楽器の演奏」ですが、このスタイルが日本でメジャーになったのは、1960年代後半の「グループサウンズ」の時代からなんだそうですね。
 そして、そのグループサウンズの中でも象徴的な存在だったのが、1967年2月に『僕のマリー』でデビューした「ザ・タイガース」です。
 今日は当店にいらっしゃった、当時の様子を知る方々のお話を少しだけご紹介いたします。現在の日本の音楽シーンに直接つながるお話なのではないでしょうか。


image ■ 岸部一徳さん(俳優)の

『ザ・タイガースのデビュー』の話

 ベンチャーズやアストロノウツの「エレキブーム」がタイガースを始めるきっかけだった。当時は「パイプライン」という曲をエレキギターで弾くのが流行っていて、僕たちは、まだ高校に入ったばかりの頃だったけど、タイガースのメンバーの何人かも流行だったから楽器を持っていた。
 僕やドラムをやってた瞳みのるなんかは楽器なんて持っていなかったけど、遊び友達だったので「バンドやろう」と誘われて。それでちょっと練習して、ダンス・パーティーに出たりしていた。
 その時にいたのはまだ4人で、沢田(研二)はまったく別のところにいた。京都の河原町のど真ん中あたりに、「田園」という今で言うライブハウスのような場所があって、沢田はそこのバンドボーイのようなことをしていた。それで時々、沢田がステージ上がって1曲だけ歌わせてもらったりしているところに、僕たちは客として踊りに行っていた。
 そんな頃に現れたのがビートルズ。ビートルズ以前のバンドは楽器の演奏だけだったんだけど、僕らもこれからは「楽器を弾きながら歌う」というスタイルを取り入れなきゃいけないと考えて、ボーカルとして沢田を誘った。
 その後、大阪のジャズ喫茶のオーディションを受け、レギュラー・バンドとして入るようになった。東京からゲスト・バンドが来たときの前座を務めるようになり、そこに来たのが「内田裕也とブルージーンズ」だった。そして、その時に内田さんが「東京に出てくれば?」と声をかけてくれた。
 その縁で、渡辺プロの偉い人たちが大阪までオーディションに来てくれて、すぐに東京へ行くことが決まった。そして次の年、昭和42年に東京でデビュー。
 僕たちは高校も途中でやめてしまっていたし、17歳くらいで家を出て大阪でプロになるつもりで勝手にやっていた。今の時代ですらそんなことをするのは17歳では早いと思うから、我ながら当時は将来のことなどは深く考えていなかったのだろう。ただ、東京へ行けばバラ色の何かがある、そんなことを単純に考えていた。

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image ■ すぎやまこういちさん(作曲家)の

『ザ・タイガースの曲』の話

 ザ・タイガースの場合は、渡辺プロダクションから「何年か預けますので、よろしくお願いします」と頼まれて、曲を書くようになった。
 「名前も付けてくれ」と頼まれたので、「じゃあ、ザ・タイガースで」と。関西出身ということもあったけど、彼らのオーディションを見て、敏捷で活発なイメージを持ったから付けた名前。「ビートルズ」「モンキーズ」など、動物の名前が良いとされていた時代でもあったし。
 曲を書くときはいろんな経緯があるけど、ザ・タイガースの場合は完全に預けられていたから、彼らの売り出して曲を売るための計算をしながら作っていた。だからシングル盤になって縦に並べたときに、1つの組曲としての形ができるような設計もできた。「第1楽章・僕のマリー(アンダンテ・モデラート)。第2楽章・シーサイド・バウンド(アレグロ・ビバーチェ)、第3楽章・モナリザの微笑み(アンダンテ)、第4楽章・君だけに愛を(レント・クワジ・アレグロ)、第5楽章・銀河のロマンス(オペラート)……」なんて。
 当時、ヴィレッジシンガースというバンドが、音楽的レベルならNo.1だったと思う。それに対してタイガースは、はっきり言って演奏技術は少しヘボかった。でも歌として考えた場合に、「声」を持っているという点ではトップクラスだったと思う。加橋(かつみ)君のテノール、岸部(おさみ=一徳)君のバス、そんな声域を持ってハーモニーを作れるバンドは他にはなかった。「♪踊りに行こうよ……」の部分は、加橋君と岸部君がオクターブ・ユニゾンで歌っていたりする。その音の幅の雰囲気は、他のバンドにはないものだった。
 GS(グループ・サウンズ)時代に売れたバンドとしては、もしかしたらブルー・コメッツの方が数字的には上かもしれない。でも、あの時代を象徴するバンドがザ・タイガースだと言われるのなら、それは「一番歌謡曲の匂いがしないバンド」だったからだと思う。

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image ■ 川本恵子さん(服飾評論家)の

『ザ・タイガースのファン』の話

 GSのファッションで一番象徴的なのは「ミリタリー・ルック」。それはビートルズの『サージェント・ペパーズ』から世界中に広まったスタイル。でも、キンキラキンのミリタリー・ルックが氾濫する中、意外にもタイガースは純白のミリタリー・スーツで、品が良い方だったと思う。
 実はあの頃、受験の合間にコンサートに行ったり、後楽園球場のコンサートに行ったりもした。だから私にとっての後楽園球場は、野球場というよりはコンサート会場。音響なんて気にしない。気にしないと言うより、気にならない。お姿を拝見できるだけでも満足。これがファンというもの。
 当時の球場コンサートは、フィールド部分がすべてステージで、客席はスタンドだけだった。それではよく見えないから、オープンカーで回って下さる。ほぼ真ん中のステージで歌うときは遠いけど、我々の声援で盛り立てる。それでOK。
 今ならジャニーズ系のファンがそんな感じかもしれないけど、その始まりがタイガースのファン、GSのファンだったのでは。男性が商品として女性に見られる、しかもティーンエイジの女性に、という考えた方が生まれたのは、GSの時が最初だったと思う。もちろん、その男性はオシャレじゃなきゃいけないし、髪型もロングじゃなきゃいけない。そんな「女の子に受ける外見」を前面に出すタレントのはしりだった。
 その外見も、一番力が入っていたのがタイガースだった。新曲を発表するたびに衣装も振り付けもガラリと変える。そんなことを始めたのもタイガース。たとえばその前の御三家は、舟木一夫はずっと学生服だったし、橋幸夫はいつも着流し。それを変えたタイガースが、女の子のファッションに与えた影響は大きいと思う。
 六本木に『キャンティ』という有名なイタリアン・レストランがあるけど、あそこの下に『ベビー・ドール』というブティックがあって、そこの川添梶子さんというデザイナーがタイガースの衣装をずっと担当してた。だからファンはその店の前を通るだけで鳥肌もの。通るたびにみんな拝んでいたし、ファンなら1度は行ったと思う。
 そんな「誰が曲を作っていて、誰が衣装を担当していて……」なんて情報が出始めて、ファンの間で有り難がられるようになったのもあの時代だった。

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image ■ 加瀬邦彦さん(作曲家)の

『急な依頼』の話

 ワイルドワンズがデビューして、ちょっと後にタイガースがデビュー。同じ渡辺プロダクションだったので、数ヶ月しか違わなかったけど「これからよろしくお願いします」って挨拶に来たのを覚えている。
 関西出身のタイガースに、関東出身のワイルドワンズ。お互いカラーが違うのはわかっていたので、ライバルというよりは、和気あいあいと仲良くやっていた。
 GSの人気がどんどん出てきて、タイガースが『花の首飾り』を大ヒットさせた後。すぎやまこういちさんの新曲をレコーディングして、発売することになっていたんだけど、会議で「これでは弱いのでは?」という話になっていたらしい。それで、僕が外で飲んで朝5時に帰ってきたところに電話が掛かってきた。
 「もしもし、中井(タイガースのマネージャー)です」「こんな時間になに?何かあったの?」「加瀬さんにタイガースの新曲を作っていただきたくて……」「それは良いけど、なんでこんな時間に?」「実は……朝10時からレコーディングなんです!」これには驚いた。
 「夕方6時までにレコーディングを終わらせて、工場に入れないと間に合わないんです!」って言われたって、こっちはお酒を飲んで帰ってきたばかりなのに。それでも断るわけにもいかない状況みたいなので、引き受けて曲を作ることにした。
 曲を作るというのは時間をかければ良いというものじゃなくて、「作らなくちゃいけない!」と切羽詰まると、無理矢理でも絞り出てくるもの。それで1時間もかからずに曲を作った。もっとも、ジュリーとは仲が良かったし、ステージを見ていて「こんな感じの曲が似合う」というイメージはあったから、作りやすかったという部分はある。それはポップで、シンプルで、覚えやすくて、単純な曲。
 そんなイメージで作ったのが『C-C-C』という曲だった。ビートルズの『ツイスト&シャウト』の最初「♪Well, shake it up, baby, now(shake it up, baby)……」みたいに、お客さんも一緒になって歌えるような曲、というイメージもあった。
 その曲を持ってポリドールのスタジオへ行き、ジュリーにはテープを渡してメロディを覚えてもらう。作詞家の安井かずみさんはロビーで歌詞を作る。残りのメンバーはスタジオへ入り、音を撮る。それが終わったら歌を……と、どうにかこうにか6時にはレコーディングが完了した。
 当時のポリドールのスタジオは木造で、音が漏れるものだから、外のファンはずいぶん熱心に聞いていたみたい。レコーディングが終わって出てきたら「♪愛のピエロが〜」なんて歌っているのには驚かされた。
 そしてその曲が7週連続オリコン1位で、またビックリ。

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image ■ 岸部一徳さん(俳優)の

『ザ・タイガースのデビュー後』の話

 1曲目の『僕のマリー』もかなり売れたんだけど、ある程度「いける」と思えるようになったのは2曲目のあと。
 GSのファンは、新しいファンが付くというよりは、どこかのファンが移動してくる、という感じだった。それがどんどん増えていって、気が付いたら人気者になっていたんだけど、それが1年とか2年掛けてじゃなくて、数ヶ月でというのが驚きだった。
 東京に出てきて間もない頃だったから、どこかに行こうと思ってもあまり地理がわからない。コンサート会場とホテルを往復するだけ、新宿でもせいぜいジャズ喫茶の場所くらいしかわからない、という状況だった。いま考えると異常だったと思う。
 状況が異常でも、意識よりも先に現象が進んでしまうから、何かを考える暇がない。そして考えるようになると、当然1人1人の考え方は微妙にズレてしまう。だから考えない時期の方が圧倒的に一致団結したグループのパワーは強かった。
 GSが本当に盛り上がった期間は5年くらい。そしてどのグループも同じような時期に解散してしまったのは、その間にどこも似たような経験をしていたのだろう。
 ザ・タイガースの場合は、やはり沢田が圧倒的な人気だった。そうすると、事務所は当然「将来的にはジュリーを中心に……」と考える。ところが僕たちは、頭の中に「友達」という意識が半分くらい残っている。そういう考え方のズレが、4〜5年の間にいっぺんに押し寄せた。
 あれだけあっという間に、ほとんどのグループが解散してしまう、という異常事態は、どこも似たような事情だったのではないかと思う。

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放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
8'59" 僕のマリー ザ・タイガース Polydor UPCH-1128/9
17'59" シーサイド・バウンド ザ・タイガース Polydor UPCH-1128/9
28'21" 君だけに愛を ザ・タイガース Polydor UPCH-1128/9
36'43" シー・シー・シー ザ・タイガース Polydor UPCH-1128/9
45'06" 風は知らない ザ・タイガース Polydor UPCH-1128/9


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