SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2003年4月19日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「TV黄金時代」

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 1953年2月1日午後2時、NHKによるテレビの本放送が始まり、日本の「テレビ」はその幕を開けました。
 同年8月28日には日本テレビが放送開始。翌々年はKRテレビ(現在のTBS)。さらに1959年にはNHK教育、NET(テレビ朝日)、フジテレビが相次いで開局し、テレビは瞬く間に大衆の娯楽として重要な位置を占めるようになりました。
 そして1960年、ついにカラー放送が始まり、1961年には『夢であいましょう』や『シャボン玉ホリデー』といった伝説的な番組が誕生します。作家の小林信彦さんはその著書の中で、その1961年以降を「テレビの黄金時代」と呼びました。
 今日、当店AVANTIにいらっしゃっているお客さまは、その「テレビ黄金時代」のまさに中心にいた方々ばかり。グラス片手に、当時の思い出話に興じられているようです。いったい当時は、どんな様子だったのでしょうか。


image ■ 永六輔さん(放送タレント)の

『テレビ草創期』の話

 三木鶏郎さんのラジオ番組『日曜娯楽版』に中学生の頃から投稿して、高校生になった頃にはいわゆる「常連」になっていた。その縁ででNHKに呼び出されて行ったのに、いざ行ってみたら全然相手にされなくて。「あの〜、僕がいつも投書をしている永と申しますが…」と名乗ったら、「えっ?!」と驚かれた。いつも投稿で恐妻ネタなんかを書いていたから、オジサンだと思われていたみたい。
 当時は「テレビ」と言わずに「テレビジョン」と呼んでいたけど、NHKから呼び出された時はそのテレビジョンの実験放送の真っ最中で、その現場見たさにスタジオへ行って、そのまま手伝うようになって、それから今に至るわけで、結果的に本放送が始まる前からテレビの世界に関わってきたことになる。モチロン最初は学生のアルバイトだから、荷物運びとかだったけど。
 最初に番組を任されたのは『夢であいましょう』だった。その前にもいくつか番組に関わったけど、全部喧嘩して辞めてしまった。たとえば『光子の窓』が始まったのが1960年。ちょうど60年安保のデモが盛んだった頃で、僕も当時の若者のご多分に漏れずデモに参加していたものだから、当然台本なんか書く暇もない。局の人が大慌てでデモの中の僕のところへ来て「早く書いてくれ」と言うんだけど、僕は「今の日本にとっては台本よりもデモの方が大事なんだ!」みたいなことを言って、「じゃあデモやってろよ!」と。それこそ日本テレビの井原高忠さんと喧嘩しちゃった。逆に言うと、井原さんと喧嘩したからこそ、NHKで仕事ができるようになった。
 放送作家、という職業は、僕と同じ世代に前田武彦さんや青島(幸男さん)がいて、この世代が一番最初の世代だった。厳密に言うと、前田さんの方がちょっと年上だけど、僕の方が高校生の頃からこの世界に関わってきているので、職歴が古いのは僕の方。
 そういえば『夢であいましょう』のレギュラーには、黒柳徹子、坂本九、渥美清、三木のり平、そうそうたるメンバーが名を連ねていたけど、あの時点で家にテレビがあったのは坂本九だけだった。生放送だからもちろん本人たちは見れないんだけど、黒柳さんの家なんかは番組が始まると近所の喫茶店までわざわざ出掛けて見ていたらしい。ちなみに坂本九の家にテレビがあったのは、客商売をしていたからだとか。
 初期のテレビ番組は、ビデオが出てくるまでは、はっきり言って作り手が自分の番組を見ることなんてほとんどなかった。だから『夢であいましょう』みたいな初期の番組が伝説化して「見てました!」なんて言われると、正直「そんなにおもしろかったかなぁ?」と面映ゆい感じがしてしまう。だって完成度がそんなに高いハズはないし。
 最初に「テレビを始めなきゃいけないけど、テレビって何だ?」みたいな会議の時は、とりあえず「ラジオに絵がついたものだろう」くらいの考えしかみんな持っていなかった。それでもやらなきゃいけなくて、しかもスタッフも出演者も全員がずぶの素人。そこから始まるんだから当たり前だけど。当時は僕が一番若い人間だったけど、気がつけばどこへ行っても一番の年寄りになっちゃった。

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image ■ 永六輔さん(放送タレント)の

『夢であいましょう』の話

 テレビ独特の台本の形式は、前田武彦さんが作ったもの。もちろん最初はテレビ用の原稿用紙なんてないから、「上に絵コンテが書けて、下にセリフが書けるようなものがあったらいいね」なんて言っていたら、前田さんが作ってくれた。それくらい何をやるにしても初めてのことだらけだった。
 放送中の失敗なんて当たり前。むしろ成功する方が奇跡と言いたくなるくらい珍しくて。後でビデオを見て「ここをこうしよう」なんて相談もできないし。ただ、『夢であいましょう』だけは奇跡的にディレクターがシネカメラの趣味を持っていて、フィルムで番組を残していた。それが今でも7〜8本だけ残っている。
 テレビがいよいよ始まって、NHKのディレクターも含めて、全員が何をして良いのかわからなかった。だから、テレビの前にあったあらゆる芸能がテレビに流れてくるようにして、それを受け入れるためのダムを造ろうとしたのが『夢であいましょう』だった。
 あの番組で良かったのは、デザイナーの中島弘子さんを司会者にしたこと。この人はやる気もなければ興味もない、本当に普通の人だった。その前に越路吹雪さんとか江利チエミとかペギー葉山とか、いろんな人をオーディションしたんだけど、「いつまでも初々しい感じを出すためには素人の方が良い」ということで、中島弘子さんに決まった。これが素人がテレビに出てくる流れの最初で、その流れは今でも続いている。実は「デザイナーを入れておけば黒柳くんの衣装も考えてくれるかも」という下心もあったけど。
 ある時、渥美清が「テレビが欲しい」と言い出した。なんでも、それまでずいぶん親不孝をしてきたし、せっかくテレビに出られるようになったので親孝行をしたい、という話だった。モノは秋葉原で見つけてあると言うから、そのまま届ければいいじゃないか、と言ったら、なぜか「一緒に来て欲しい」と言う。それで仕方がなく2人でテレビを抱えて、田端にあった渥美清の実家へ行った。そしてお母さんの前で風呂敷をほどいたら、お母さんが急に泣き出して「またやったのか!」だって。慌てて渥美ちゃんが「いや、これはオレが買ってきたものだから、な、な、永さん!」って僕に助けを求めるから、「あの、これは警察来ませんから」って言ってあげた。
 こういった感じで、ストリップ劇場あがりの人もいれば、能狂言の世界の人もいる、『夢であいましょう』はそんな番組だった。

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image ■ 前田武彦さん(放送タレント)の

『テレビの仕事』の話

 NHKがテレビを始めたのとほとんど同時に、日本テレビとTBS(当時はラジオ東京テレビ)が開局した。僕はNHKで仕事をしていたけど、小学校時代の友達が日本テレビにいたので、「仕事を紹介してくれない?」と売り込みにいって、後に『ゲバゲバ90分』なんかを一緒にやることになる井原高忠さんを紹介してもらった。
 それで日本テレビでも仕事をさせてもらっていたら、ディレクターが「面白いヤツを紹介するから」と言って、当時あった電波塔の下の喫茶店に連れていかれた。すると向こうから、顔が長くて、ベレー帽をかぶった、舌っ足らずの変なヤツが来て「ボクが永六輔です」なんて自己紹介する。それが彼との出会いだった。でもちょっと一緒に仕事をしただけで、やっぱり「優秀だな〜」と唸らせるものはあった。
 そんな次第で、僕はNHKと民放、どちらでも仕事をしたけど、スポンサーがいるというのはものすごく違いがある、ということを痛感した。NHKの場合はディレクターと納得のいくモノを作ればいい。でも民放はそこにスポンサーの意向が入ってくる。実際には最初の頃は、今と較べればスポンサーの付いている番組なんて少なかったんだけど。
 その後、日本テレビの仕事が多くなっていって、お昼のバラエティ番組『茶の間のリズム』を経て、『シャボン玉ホリデー』に至る。ちなみに『茶の間のリズム』なんて変な名前の番組だけど、ディレクターの「新人を使いたい」という意向で、高校生の女の子を使った。綺麗なのは良いんだけど、喋るとあがっちゃって、どうにも台本の棒読みになってしまう。それが今の三田佳子さんだった。
 三田佳子さんとはずいぶん仲良くなって、プールに連れて行ったりもした。佳子ちゃんの家まで迎えに行ったら、お母さんがお茶を出してくれたり、彼女も「ねぇ前田さん、こっちの水着とこっちの水着、どっちが良いかな?」なんて聞いてくれたり。今となっては信じられないけど……

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image ■ 青島幸男さん(作家)の

『おとなの漫画』の話

 昭和34年にフジテレビが開局して、私の中学時代の友達がはじめてディレクターになった。その人が、なにを隠そう作曲家のすぎやまこういち。彼に呼び出されて「今度クレイジー・キャッツっていうのを使って番組をやるから、作家予備軍として来てくれ」と頼まれた。
 その時のレギュラー作家と言えば、三木鮎郎さん、永六輔さん、キノトールさんのお三方。お三方に何かあった時のために……というのが私が呼ばれた理由だった。ところがお三方は売れっ子で忙しい。その日に起こったトピックをまとめてコントにして、海のものとも山のものともしれないクレイジー・キャッツがやる、なんて面倒臭い番組からは、すぐにみんな逃げてしまった。それで捕まっちゃったのが私だった。
 前の晩に夕刊を見て、「いいネタがない!」なんて言って酒を飲んで寝てしまう。翌朝6時に起きて、新聞を読んでコントの台本を書く。それを持ってフジテレビに行くと、クレイジー・キャッツの連中が長椅子にズラッと座って待っているので、生原稿を渡す。みんなは「おい、2枚目どこだ?」なんて言いながら台本を読んで、稽古をして、お昼には本番。それが繰り返される毎日で、とにかく大変だった。
 ある時、台本もちゃんと用意して、衣装合わせもちゃんとやって、万全の準備をして本番に望んだら、クレイジー・キャッツの誰かが「クックックッ」と笑い出した。止めようとしてハナ(肇)ちゃんが行ったら、一緒になって笑い出しちゃって。そのうち、谷(啓)さん、植木屋(植木等さん)、みんな笑い出して、最後にはカメラマンさえ笑って画面が揺れだし、そのまま5分の生放送が終わっちゃった。もうディレクターはカンカンになってインカムを叩きつけて怒り、私も「ちゃんと台本を用意したのに、どういうことだ?!」と怒った。クレイジーの面々は平謝りに謝って、それで一応、事なきを得たんだけど……その翌日。山のような投書が局に寄せられて「ずいぶんいろんな番組を見たけど、昨日のが一番おもしろかった」だって。「オレたちは今まで何をやっていたんだよ!」って話になった。
 エイプリルフールには、フリップに横線を書いて、カメラの前で揺らす、なんてイタズラもした。しばらくそれを見せてから、パッとフリップを外して「おたく、こんなことしたでしょ?」って、チューナーを回すしぐさをして、つまり電波障害のフリをしたんだけど、そうしたらマスター(主調整室)から人が飛んできた。マスターの仕事は放送事故が起こらないようにすることだから、そのイタズラを見て本気で驚いたらしい。そこに「おたく、つまみ回したでしょ?」だから、怒ったの何の。結局、すぎやまこういちクンが始末書を書かされた。
 それでも懲りない我々は、翌年のエイプリルフール、マスターに根回しをしておいてから、同じイタズラをやった。ところが今度は、その1年で視聴率が良かったおかげで、全国ネットになっていて、全国の地方局のマスターが腰を抜かした。それですぎやまクンは、またもや始末書。
 さらに翌年、さらに悪ノリした我々は、番組の最初で口だけ動かして、音を出さなかった。今度は音声が「事故だ!」ってすっ飛んで来て、そこにハナちゃんの「オレ、声出してないんだよ」。これも局内でかなりの大問題になった。

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image ■ 青島幸男さん(作家)の

『シャボン玉ホリデー』の話

 学生の頃からラジオでディスク・ジョッキー・ライターをやっていたけど、その頃から「オレもいつかはテレビのホンヤ(台本屋)にならなきゃならないな」と考えていた。でもテレビの台本の書き方なんて、何もわからない。だからテレビを見ながら、原稿用紙に台本を書く練習をした。
 ビデオなんかない時代だから、テレビを見ながらメモを取って、番組が終わってから忘れない内に台本にする。そんなことをしていたから、いざその仕事をするようになってからも、どんな番組が来ても驚くことはなかった。もっとも「いつかはテレビの仕事を……」なんていうのは後で考えた話で、どちらかといえば「テレビの番組ってどうやって成り立っているんだろう?」という興味が先にあったと思う。
 『おとなの漫画』はその後、フジテレビで視聴率1位の番組になり、クレイジー・キャッツもそこそこ売れ出した。『おとなの漫画』で知り合ったクレイジーとは、長く番組を続ける間に個人的な付き合いもでき、それぞれの個性もわかってきて、それで植木さんの「無責任男」が誕生した。
 その縁で、日本テレビで『シャボン玉ホリデー』が始まった時に、ハナちゃんが「青ちゃん、一緒にやらないか?」と誘ってくれた。『シャボン玉ホリデー』と言えば前武さんだけど、実は『シャボン玉ホリデー』よりも前に永六さんと前武さんと私の3人で、アサヒグラフという雑誌に小説を連載していたことがある。『亜香ちゃん』というタイトルで、キャラクターが決まっていて、それを3人で回していくんだけど、後の2人がとにかく上手くて。変な連れ込み旅館で編集者に缶詰にされて、3人で一生懸命書くんだけど、私だけ書けなくて泣き出したこともある。後で前武さんも永ちゃんも、必ずその話をテレビやラジオでするんで参ってるんだけど、事実だから反論のしようがない。でも、それくらい悔しかった。
 『シャボン玉ホリデー』は、正力松太郎さんの肝いりで始まった番組。だから最初からカラーだった。読売新聞社を経営する正力さんがアメリカへ行き、「これからはテレビの時代だ!」と考えて、麹町にスタジオを造って許可申請を出した。その早さたるや、NHKが後から慌てて申請を出したほどだった。
 当時のテレビ局は、先達がいないから20代半ばの作家がデカイ顔をしていた。永ちゃんなんか16〜17歳で、Gパンにゴム草履という格好でデカイ顔してたし。オレたちもそれに憧れて、Gパンにゴム草履で局に出入りしていたけど。

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放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
10'31" Lover, Come Back To Me 美空ひばり Columbia CA-4545
19'52" On The Sunny Side Of The Street フランク永井 Victor VDR-1170
29'44" C'est Magnifique 美空ひばり Columbia CA-4545
40'04" Crazy Rhythm 江利チエミ King KICX 264
47'48" All Of Me フランク永井 Victor VDR-1170


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