SUNTORY SATURDAY WAITING BAR
2002年1月12日の放送

この日の放送曲目リスト/過去の放送内容リスト

「家族特集・成人式」

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 当店では、親子2代に渡って通っていただいているお客様も、時々お見掛けします。いつも土曜日の夕方にいらっしゃるあの常連のお客様も、かつて成人の日にお父様にここへ連れてこられ、これからはお前も大人なんだから……みたいな事を言われたそうです。私はお父様にはお会いした事はないのですが、きっと粋な方なんでしょうね。
 そういえばあちらのお客様も、今日は親子で連れ立っていらっしゃっているようですね。私などは父親と飲みに行っても、何の話をして良いものやら悩んでしまいそうですが、あちらの席では一体どんな話をされているんでしょうか。



image ■ 小田島雄志さん(東京大学名誉教授)と
  小田島恒志さん(早稲田大学文学部助教授)の

「翻訳家一家」の話

【恒志さん】
 今は卒論の季節。僕も山ほど卒論を見なくちゃいけないんだけど、その中に『イギリスのセンス・オブ・ユーモアについて』という論文があった。そしてその論文の参考文献をよくよく見てみれば、『駄ジャレの流儀』(小田島雄志著)と書いてあった。確かに、英文学の専門家が書いたユーモアの本だけど……と思わず苦笑してしまった。
 僕が大学に入った頃は、まだ英文学をやるとは決まっていなかった。受験の時に日本史も好きになったし、何より子供の頃からラジオ工学が好きで、第二級アマチュア無線技師の資格を取ったほどだったし。でも、今にして思うと、ラジオという機械そのものよりも、会話する事が好きだったのかなとも思う。だから今も、会話が中心の「芝居」を翻訳しているのかもしれない。
 最近、電子メールが普及して、メールによるコミュニケーションが盛んになってきたけど、あれは書き言葉によるコミュニケーションで、会話によるコミュニケーションとはちょっと違う。やっぱり会話には「間」の面白さがある。だから芝居でも「間」が面白いセリフは、どんな上手に訳したセリフよりもイイと思う。だから芝居を翻訳する時は、一度必ず声に出して読んでいる。
 教員になって気が付いたんだけど、クラスには一人くらい、どうしようもなくうるさい学生がいる。ある時、あまりにうるさい学生がいたので、「どうしてそんなに喋るの?」と聞いてみたら、「自分でもいけないとは思うんですが、思いつくとどうしても言いたくなっちゃうんですよ」と言っていた。それを聞いて僕は「君は絶対に教師になれ、そうすれば教室でいくら喋ってもいいんだから」とアドバイスした。というのは、僕も同じタイプの人間だったから。
 ところで以前、パーティーでオフクロが「小田島先生の業績は、この方の支えがあってこそのものだと思います」なんて感じで壇上に呼ばれて、第一声で「小田島は私と結婚しなくても翻訳していたと思います」と言ってバカ受けした事があった。僕はオフクロがそういうところでウケを取ろうとするタイプの人間だと思っていなかったから結構ショックを受けて、その言葉をずっと覚えていたんだけど、その後、僕も翻訳に携わるようになってふと思ったのが、僕は多分、則子(恒志さんの奥さん)と結婚していなかったら、こんなに翻訳をしていなかったかもしれない、という事。オフクロと違って、則子はかなり僕の仕事にダメを出す。「ここ無理」とか「ここ変」とかすごく厳しくて、それが逆に励みになった。

【雄志さん】
 そういえば、僕のシェイクスピア37本完訳記念パーティーでも、若子(雄志さんの奥さんにして恒志さんの母)は名台詞を吐いていた。当時、僕は明けても暮れてもシェイクスピアの翻訳に掛かり切りで、たまに仕事の都合でどうしても翻訳が進められない日は不機嫌になっていたものだった。その様子をそばで見ていた若子は、バーティーの席で「私は女の人に嫉妬した事はないけれど、シェイクスピアには嫉妬しました」なんて言っていた。その場では「それじゃぁ僕が全然モテないみたいじゃないか」なんて文句を言ったんだけど、名台詞には違いない。

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image ■ 淡口憲治さん(読売巨人軍二軍監督)と
  淡口英治さん(某広告代理店)の

「プロ野球選手の父親」の話

【英治さん】
 僕が「お父さんはプロ野球選手なんだ」という事に気付いたのは、小学校に上がってからだった。周りには「お父さんがプロ野球選手だなんて羨ましいな」なんて言われたけど、その頃はちょうどお父さんが巨人から近鉄に移籍していた時期で、僕自身は「(憲治さんが大阪に単身赴任だったため)1年の半分もお父さんが家にいないなんて、全然良くないぞ」と思っていた。
 テレビではお父さんの姿を見る事が出来たし、それをお母さんと妹と僕の3人で見ていたけど、やっぱり家にお父さんがいないのは不自然な感じがしていた。ところが人間、意外と早く環境には馴れてしまうモノで、いざお父さんが帰ってくると「何でいるんだろう?」と感じるようになってしまっていた。

【憲治さん】
 実は結婚した時は、男の子が欲しい、と思っていた。それは純粋に「淡口」という自分の名字を継いで欲しい、と思っていたから。でも、いざ男の子が生まれた瞬間、「あ、野球選手に育ててもいいかな?」という新たな夢を少しだけ持ってしまった。その頃は自分も一番バリバリと活躍していた時期で、苦しかった時期の事を忘れていたんだと思う。だから「好きな事をやってお金をもらえる素晴らしい仕事だし、もしかしたら『カエルの子はカエル』じゃないけど、可能性があるんじゃないか……」なんて考えてしまった。
 でも、いざ君(英治さん)が大きくなってきて、野球をやり始めた頃には、「果たしてこの生活が(英治さんに)できるんだろうか?」と考えるようになっていた。やっぱりプロ野球選手というのは楽しいばかりじゃなくて、精神的にすごく辛い部分もあるし、良し悪しの結果がすぐに出てしまう。良い時はヒーローとして扱われ、どの新聞を見ても自分の写真が載っている。ところがミスをしたり結果を残せなかった時は、「淡口のミスで負けた」とデカデカと書かれてしまう。その精神的なプレッシャーは本当に辛かった。

【英治さん】
 僕は、実際にお父さんがプロ野球の選手で、その良いところも悪いところも知っているつもりだけど、小学校の最後の頃に、お父さんと一緒に夜の公園を走ったりしている時に、「この歳になってまでこんなにもトレーニングしなくちゃならないなんて、なんて大変な仕事なんだろう」と感じていた。1年間野球をやってきて、オフシーズンになってもまだ体を鍛えなくちゃならないのか、という事に気付いた時に、好きというだけじゃやっていられない仕事なんだな、と思った。

【憲治さん】
 シーズンが終わったから休み、というのでは、次の年にちゃんと動けるようになるまで時間が掛かってしまう。だから清原クンにしても秋山クンにしても、ベテランと呼ばれる選手はシーズンオフほどトレーニングをしている。そうすることによって、39になっても40になってもプレーできるんだと思う。ただ、「もうダメだ」「もうイイや」という気持ちが出てくるようになったら、それは引き際。そういう気持ちが出なければ、「まだオレはやるんだ」と思っていられるなら、45でもプレーを続けるべきだと思う。

【英治さん】
 野球をやっていて思ったのは、サッカーやラグビーならミスをした時にすぐに取り戻す事もできるけど、野球は次の打席が回ってくるまで取り戻すチャンスがない。それが野球の辛いところでもあり、面白いところでもあると思う。そして今、それを自分が5万の観衆の前で出来たか、と問われると、ちょっと無理かなという感じがする。

【憲治さん】
 そうなんだけど、「ピンチヒッター、淡口」というアナウンスで5万の観衆が「ウォー!」と歓声を上げるあの瞬間、あのゾクゾクする感覚は、1度体験してしまうと忘れられない。でも、その瞬間以外は確かに辛いし、怖い。ピンチヒッターは打てない人の代わりに出ていくんだから、打って当たり前。だから凡打でもしてベンチに帰ろうものなら、周りの視線の冷たいこと冷たいこと。しかもそれで試合が決まってしまうケースが多いから、そのプレッシャーたるや、凄まじいものがある。
 ただ、これだけは言えるんだけど、これから貴方(英治さん)の人生において、プロ野球選手になれなかったことは、決して悪いことではなかったと思う。野球だけじゃなくて、いろんな事を経験した方がいい。いろんな失敗をしながら成功していかなくちゃ、成功ばかりを選んでいくと、どこかで必ずものすごく大きな失敗をしてしまうから。

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image ■ 淡口憲治さん(読売巨人軍二軍監督)と
  淡口英治さん(某広告代理店)の

「父親の影響」の話

【英治さん】
 さっきお父さんが「プロ野球選手にはしたくなかった」って言ってたけど、僕の子供の頃を写真を見ると、全然記憶にない頃からバットとグラブを持っている。これってどう考えてもお父さんが与えたものなんだけど……
 それからちょうど僕(英治さん)の子供の時代は、『キャプテン翼』が流行っていて、第1次サッカーブームの真っ最中だった。だから普通の人は、サッカーをやるか野球をやるか、それなりに考えるところだったんだろうけど、僕は野球をやるのが当たり前だと思っていた。
 野球をやっていても、「淡口ならこれくらいは出来て当たり前」と監督やコーチに思われることもしばしばあった。たとえそれが、僕がどんなに努力して出来るようになったことでも「当たり前」と思われてしまう。それを恨む気持ちはなかったんだけど、やっぱりどこかで「もうちょっと僕をちゃんと見てくれてもいいのに」と思う気持ちはあった。
 プロ野球選手の父に持つ、という事は、本人の望む望まないに関わらず、どうしても特殊な環境になってしまうのかもしれない。

【憲治さん】
 それは初耳だけど……済まなかった。
 私も長嶋さんの息子さん(一茂さん)に初めて接した時は、いま貴方が言ったような見方で見ていた。「長嶋さんの息子だから、ココまでは普通だろう」と。でも、それは間違いだった。長嶋さんのところだけじゃなくて、他にも息子さんがプロに入っている人はいるけど、どうしてもお父さんと較べられてしまうというのは、かわいそうだと思う。

【英治さん】
 でもやっぱり、野球をやっていた間は、お父さんを越えてなんぼ、というか、越えることが親孝行だと思っていたし、同じスポーツをやっていてそう思えることは、決して悪いことばかりじゃないと思う。
 結局、大学の時に腰を痛めて、野球を続けるかどうかの瀬戸際に発たされた時に、お父さんの「君はプロになれないよ」という一言で野球を断念したんだけど、プロのコーチに「無理だ」と断言してもらったことで、スッパリ野球への未練を断ち切れたことは、長い目で見ればありがたかったのだろうと思っている。

【憲治さん】
 それはプロのコーチとして改めて説明すると、プロの世界には「この年齢で、このぐらいの技術だと、ある水準以上には成長できない」という指標が明快にある。それを無理にプロの世界へ入れても、2〜3年で結果が出なくてクビを切られ、しかもその先は何の保証もない、という事態が待っている。
 だから水準に達していない選手には、「夢を追い掛けたい」という気持ちも解るけど、「今の仕事を続けた方がいいですよ」とちゃんと言ってあげるべきだと思っている。
 ただ言えるのは、「夢を追い掛ける」上で大切なのはチャンスとタイミング、という事。チャンスは絶対にあるから、それをいかに逃さないか。そのためには、日頃から自分にウソを付かない、自分で納得できる行動をとることが重要。そしてチャンスが来た時に、自分の気持ち、精神力をしっかり持っていないと、せっかく来たチャンスを掴みきれない。チャンスを逃さないための準備こそが、夢を掴めるかどうかの別れ道。

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image ■ 小田島雄志さん(東京大学名誉教授)と
  小田島恒志さん(早稲田大学文学部助教授)の

「チェーホフ」の話

【恒志さん】
 日本の舞台で行われるチェーホフの芝居って、なんだか「芸術作品」的な仕上がりなんだけど、これはおそらく構えて見ている客の影響も大きいと思う。これが10年ほど前にロンドンで見たチェーホフだと、客はげらげら笑うは、役者も明るいわ、全然雰囲気が違った。
 言葉の問題もあるのかもしれない。モスクワ芸術座が日本に来て公演したら、ちょっともの静かな雰囲気のロシア語の舞台。それがロンドンの舞台だと当然英語なので、ちょっとがさつな感じになる。何にせよ、ロンドンでチェーホフを見てイメージが変わった。登場人物がみな明るいというか、生き生きしているというか。

【雄志さん】
 日本で最初に「明るいチェーホフ」が話題になったのは、モスクワ芸術座の『桜の園』だった。たしか恒志が産まれるちょっと前くらい、1940年頃だったと思う。それまで「滅びゆく美学」の芝居として、陰々滅々とは言わないまでも、寂しいペーソスこそがチェーホフと思われていたんだけど、その時の公演では「チェーホフにはユーモアもあるんだ」という事を日本に知らしめた。
 それからさらに時が流れ、1960年代後半になってやっと日本でもチェーホフが少しずつ見直されるようになり、そして本当にここ数年になって、「明るいチェーホフ」から「楽しめるチェーホフ」が見られるようになってきた。

【恒志さん】
 シェイクスピアだったら、読めばどういう笑いを求めているのかすぐに分かる。でもチェーホフの場合はセリフ以上に、役者が顔で見せる笑いに依存している分、勘違いされやすいのかもしれない。例えば、最近のCMで、真田広之が歌を歌いながら空を飛んで家に帰って、「お疲れになったでしょ?」と聞かれても「全然」と答えるヤツ、あれこそがチェーホフだと思う。チェーホフのキーワードは「何くわぬ顔」。だから僕が翻訳した『くしゃみ』をいっこく堂がやると聞いて、「そりゃ何くわぬ顔だ!」と喜んだ。

【雄志さん】
 チェーホフはそもそも、アントーシャ・チェーホンテというペンネームのコント作家だったんだから、それが一番の得意分野だったんだろうと思う。
 チェーホフと言えば、今から47〜48年前、『かもめ』の新劇合同公演が行われた。俳優座からは演出の千田是也を筆頭に東山智恵子と楠田薫、民芸からは宇野重吉と滝沢修、文学座からは杉村春子と芥川比呂志、といった具合に、天下の名優たちが集ったすごい公演だった。
 ところが、あまりにも凄いメンツすぎて、舞台の上は「いかに自分が目立つか」で押し合い圧し合い、言うなれば戦いの場になっていた。滝沢修さんは芥川比呂志さんの肩をグッと掴んで、舞台の前の方へ押しやる。すると滝沢さんに向かってセリフを言わなくてはならない芥川さんは、必然的に観客に背を向けなければならなった。演出家が「修ちゃん、そこはこうね」と言って直したのに、何度稽古してもそこは直らなかったそうな。しかも芥川さん曰く「ものすごい力だった」とか。かと思えば杉村さんは、中央の争いから1人離れて、スーッと舞台の袖近くにポツリと立つ。そうすると逆に、そっちがものすごく目立ったりもしたらしい。
 そんなこんなで、かなりドタバタした舞台だったんだけど、実はその方がチェーホフには合っていた。ノッペラボウのアンサンブルのチェーホフなんて、面白くも何ともない。個性がギラギラしていてぶつかり合っているチェーホフこそ面白い。

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放送曲目リスト

Time Title Artist Label Number
12'00" Pick Yourself Up Ella Fitzgerald Verve 314 519 347-2
24'35" Dream A Little Dream Of Me Ella Mae Morse Capitol TOCJ-5900
35'49" The First Baseball Game Nat King Cole RHINO R2 70959
47'02" Unforgettable Nat King Cole Electra 9 61049-2


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