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「呼び屋」
1966年6月30日午前3時、「グッド・モーニング」という挨拶とともに羽田に降り立ったビートルズは、日本中を興奮の渦に巻き込んだ。武道館で行われた3日間5回の公演には、定数の10倍以上もの申し込みが殺到。彼らがステージに現れると、泣き叫ぶ者や失神する者も。彼らの泊まるヒルトンホテルの周りはファンが取り囲み、警備のために駆り出された警察官は、5日間の滞在期間中で述べ3万5千人に及んだという。社会的な事件とも言われたビートルズの来日。しかしその事件は、仕掛けられた、人の手によって創り出された事件である。 その創り手をプロモーターと言う。古くは「呼び屋」と言われた、世界を股に掛ける仕掛人。彼らは華やかな世界を裏から支え、普段は決して表に出ることはない。今日はそんな「呼び屋」の人達の話しに、聞き耳を立ててみよう。
ビートルズに来日してもらったとき、自分は既に40歳。それに対して彼らは20代前半。そのギャップが大きすぎて、打ち解けることが出来なかった。やっとこの歳になって、ジョンでもポールでも、普通に話せるようになったが。それで当時の話を聞いてみると、秒刻みでスケジュールを詰め込んだりホテルに缶詰にしたりしたのに、彼らの間では意外なくらい日本の評判は悪くなかった。どうもその原因は、日本の後に行ったマニラにあった。マルコス夫人との面会予定を、手違いと勘違いとプロモーターのミスですっぽかしてしまったビートルズ。その後はフィリピン滞在中ずっと意地悪をされたらしい。ギャラは貰えないわ、警備の人間は居ないわ、挙げ句の果てにはエスカレーターの電源を切る、なんてことまであったとか。それで「日本は良い国だった」と思っているようだ。
この仕事を始めた頃は、自分の円を自由にドルに替えることもできなかった。旅行をするなんてこと自体がとんでもないと思われていた時代で、まず外国人からの招聘状が必要だった。それを持って大蔵省へ行くと、500ドル分だけ自分の円を両替してくれるので、それを持って海外へ出て行くのが普通だった。しかしそれではとてもじゃないがギャラが払えないので、闇ドルをかき集めて持っていったのだが、それでも米国のギャラの半分しか払えない、なんてことはしょっちゅう。しかもドルを流出させてはイカンと言われ、仕方なくニセモノの契約書を作って、そこには「交通費と滞在費しか払いません」なんて嘘を書いたりして。そしてそのニセ契約書類で、大蔵省、法務省を通す、なんて、いろいろ無茶なこともした時代だった。そんな苦労をしながら呼んだ最初の大物アーチストは、ナットキング・コール。
まず、毎週月曜日はミュージシャンを出迎えに成田まで。そこからキャピタルホテルへお連れする。その日の夜はミーティングがあって、火曜日が初日。そして日曜日まで毎日演奏してもらい、月曜日はまたお見送りで成田へ。そして成田で少し待つと、次のミュージシャンが到着するというルーチンになっている。つまり、休みの日がない。アメリカ人の契約は本当に細かいし、連絡もマメに取らなくてはならない。扱い易いミュージシャンもたまにはいるが、わがままなミュージシャンは何を言い出すか分からない。まあ苦労するのがこの仕事の宿命のようなモノだと思ってやっている。
外国人の方達は、みんな焼き肉やお寿司が大好き。特に回転寿司は人気がある。システムが分かりやすいのが受けているみたい。寿司好きの外国人と言えばフラメンコの大御所、アントニオ・ガデス。彼の場合は行くお店が決まっていて、新宿に馴染みのお寿司屋さんを持っている。彼は江戸前寿司の味が分かるみたいで、大阪や北海道とかでもお寿司を食べるんだけど、やっぱりそこのお寿司がいいらしい。特に好きなネタはコハダ。新宿文化センターがお気に入りのホールなので、そこから歩いて帰れるところにあるホテルにいつも泊まる。そして、そのお寿司屋さんに寄るというのが、彼の来日時のお決まりコース。
グランド・ファンクを呼んだときに、後楽園球場を貸し切って初めて野外コンサートに挑戦した。もちろん後楽園球場としても、コンサートのために貸し出すなんて初めて。何が起こるか分からないまま、みんな無我夢中で準備をしたら、なんと当日はみぞれ混じりの暴風雨。しかも興奮した客が上半身ハダカになってバックネットによじ登るわ、グランド・ファンクは帰っちゃうわ、とんでもない騒ぎになった。一応、グランド・ファンクが戻ってきて演奏してくれたので、「よし!コレでなんとかなった…」と思ったら、今度は「うるさい!」と苦情の電話。それもなだめすかししながら、やっとステージが終わったと思ったら、さらにお客がアンコール。喜んでステージに出て行こうとするグランド・ファンクを、よっぽど殴り倒そうかと思った。
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