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「ミュージカル」
ミュージカルといえばニューヨーク・ブロードウェイが本場だが、最近は東京でもずいぶん本格的なミュージカルが見れるようになってきた。
アニメ映画の「ライオン・キング」は、子供にも分かりやすいように作られていたけど、舞台の方は大人の観賞にも堪える作りになっている。ジュラ・テモラという女性の演出で、影絵や人形浄瑠璃などの手法も採り入れ、いままでのブロードウェイ・ミュージカルになかった表現が多用されていることでも話題になった。それで今年のトニー賞を6部門も受賞。ちなみに、動物は着ぐるみじゃなくて、仮面で表現している。冒頭の「誕生」のシーンでは、舞台の袖はもとより客席の横から後ろから、ものすごい数の動物達が登場して、別世界に来てしまったかのような気分になる。
昔「映画の日」といって、たくさんの俳優が劇場で歌を歌ったり踊りを踊ったりして、お客さんにサービスをする日があった。僕もある時、俳優の一人として歌ったら、それを聞いた菊田一夫先生が声をかけてくれた。「今のままだと君は映画史上不滅のスターというものにはなれないと思う。しかし、これから僕がやる新しいミュージカルの運動に参加してくれたら、日本のミューカルの初期に活躍したスターの一人にしてみせる。どうだ、やってみないか。」当時、日本のミュージカルといえば、「東海道は日本晴れ」のような「歌入り爆笑喜劇」という位置づけだった。そんな中、菊田先生が選んだのは、バリバリのブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」。そしてそれが、日本の本格的ミュージカルの幕開けだった。
「マイ・フェア・レディ」の稽古の時、菊田一夫先生が最初に要求したのが、「英語の台詞を日本語に直すと3倍の長さになるから、3倍の速さで喋ってくれ」だった。ところがどこかの興行会社が、ブロードウェイでオリジナルを作ったところに「今、日本で菊田一夫という男が、ずいぶん台詞を変えてマイ・フェア・レディを上演してます」なんてことを言ったようで、その会社からお偉いさんがわざわざ日本まで舞台を見に来たこともあった。でもその人は「受けてるからいいじゃないか、それが日本のマイ・フェア・レディなんだ」と言って帰ってしまった。舞台とはそういうものだし、また、そう言ってもらえるくらい僕たちの舞台は受けていた。当時はまたカーテン・コールという習慣もなかったのに、いつまでも鳴り止まない拍手で、大道具のかたずけに入っていた舞台の幕をもう一度開けて挨拶をしたこともあった。あの舞台のお陰で、僕の役者生命は20〜30年は伸びたと思う。
大昔に「ファンタスティックス」という、今ではおそらく世界一のロングランになっているオフ・ブロードウェイ・ミュージカルに出演しようとしたら、東宝からえらい叱られた。帝劇でやっていた「風とともに去りぬ」でレット・バトラー役をやっている時に何をやっているんだ、と。でも「ファンタクティックス」に出ようと思ったのには訳があった。たまたま入ったオフ・ブロードウェイの小さな劇場、一番前にだらしなく座って見た芝居。ところがその芝居は、音楽性の豊かさや、台詞が分からなくても感じられる俳優たちの暖かいパフォーマンスで、僕を完全に魅了した。そしてその芝居の途中、だらしなく伸ばした僕の足に、出演者の女の子が引っ掛かって転んでしまうという事件が起きた。わざわざ芝居を止め、僕の無事を確認し、さらに恐縮している僕に慰めの言葉を掛け、「じゃあ始めよう!」と再び芝居が始まった。こんな暖かい舞台もあるのか、とショックを受け、絶対に日本でもやりたいと思ったこの芝居が「ファンタスティックス」だった。
「ファンタステックス」は、元々どこかの学園祭のために作られた芝居で、それがオフ・ブロードウェイ・ミュージカルのプロデューサーの目にとまったことから、商公演されるようになった。それ以来、公演はずっと続けられ、いまや世界一のロングラン。途中で一度やめようとした時期もあったが、世界中の「ファンタスティックス」ファンから「やめないでくれ」という声が寄せられた。中には子供の頃に見たお爺さんが「孫に見せたいから」という声もあったし、ニューヨークのコッチ市長が大ファンで、劇場の前の通りを「ファンタスティックス通り」と名付けたなんてこともあった。それで今でも続いているし、世界中で上演されている。オフ・ブロードウェイのの劇場には世界中で上演された時の各国のポスターが貼られているが、僕が出演した時の日本のポスターも貼ってあった。これには震えるほど感動してしまった。
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