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「フランク・シナトラ」
番組冒頭より――「私の親戚に、話の分かる叔父貴が一人おりましてね、道楽者で若い頃の遊び好きが体にたたったせいか、二週間ほど前ぽっくりあの世へ行ってしまいました。今日AVANTIで、その叔父貴をしのぶ集まりがあるんですよ。」 「叔父貴は、両親が私にアレはダメ、コレはやっちゃいけないと口やかましく言ってた時、酒のおいしさや、女の子の口説き方を教えてくれた、素敵な人生の先輩でした。そして、その叔父貴は、私の叔父であるばかりでなく、ジェイクにとっても、また、AVANTIの全ての常連達にとっても、大人の遊びを教えてくれた、素敵な親戚の叔父さんだったんです。」 「そう、その叔父貴の名前は、フランシス・アルバート・シナトラ。」
僕がシナトラを好きになったのは、シナトラがまだ流行歌手だった頃、しかも、流行歌手としてはちょっと落ち目になりかけていた頃だった。当時シナトラはスイングするアレンジャーが好きで、シナトラの歌い方はスイングしていなくても、バックがスイングいているというスタイルにとても惹かれた。20年以上も前にシナトラが日本に来たときは、帝国ホテルでディナーショーをしたのだが、その値段は1人15万円。でもアメリカに行ってホテルに泊まり、シナトラのショーを見ようと思ったらそれ以上かかるのだから、決して高いとは思わなかった。初めて見たシナトラは、曲の説明がすごく丁寧な、とても愛想が良い人だった。
シナトラは、ハンフリー・ボガードを非常に尊敬していた。役者としても尊敬していたが、それ以上にハリウッドを批判する姿勢に惚れ込んでいた。日本語では「ネズミ党」なんて訳されているシナトラ一家「ラット・パック」は、全員アメリカの少数民族の人間。つまりシナトラは、権威に対して非常にアレルギーが強く、少数民族の人に対しては面倒見の良い人だった。だからシナトラの映画「勇者のみ」に出演した三橋達也さんは、シナトラにものすごく可愛がられていた。「TaTsuya」の頭を取って「タート」と呼ばれ、三橋さんが恐る恐る「映画のセットが日本を誤解しているですけど…」とシナトラ監督に言うと、即座に美術の人を呼び、「タートの言うとおりに作りなおせ」と言うほどだった。ちなみに、その後出来た三橋さんの事務所は「タート・プロダクション」という。
シナトラはクロスビーに憧れて歌手になったと言われているが、シナトラの偉いところは、クロスビーの真似をせずに、甘くセンチメンタルに歌ったところ。40年代にはアメリカの若い人達が戦争へ行き、恋人や亭主のいなくなった寂しい女性を慰めるように、シナトラの甘い声がアメリカ中を響き渡った。しかし戦争が終わってしばらく経つとマンネリと言われ、さらに離婚や美人女優との再婚も重なって、人気がガクッと落ちてしまう。だが、彼はそこから不屈の精神で復活する。歳をとって声はザラついたが、今度はその渋い声を生かして悲しい歌は身を切るように切なく、喜びの歌は力強く大きくスイングして歌った。歳を経るに連れて重なっていく人生経験も全て歌に込めた。だから彼の歌には、説得力があった。
僕が学生だった頃、ほんのアルバイトでフランク・シナトラ、サミー・デービス・ジュニア、ライザ・ミネリという夢のような3人のコンサートでオーケストラをやったことがある。そのとき練習のために渡された楽譜に、真っ赤なファイルに金文字で「Frank Sinatra」と書いてあるのを見た瞬間、手が震えてしまった。ところがシナトラはいつまでたっても現れない。前日にライザ・ミネリのリハーサルがあり、当日のサミー・デービス・ジュニアのリハーサルが終わっても、まだ来なかった。そうこうする内に本番が始まり、2人分のショーも滞りなく終わり、そこで初めてシナトラが現れた。しかも客席から。客もシナトラを見たいと総立ちになっていたけど、実は楽団のメンバーもシナトラを見たくてウズウズしているという、珍しいコンサートだった。
サミー・デービス・ジュニアの自叙伝「Yes, I can」は、サミー・デービス・ジュニアが「ゴールデン・ボーイ」というブロードウェイ・ミュージカルに出演したときに、プロモーションも兼ねて出版された。当時フランク・シナトラは「毎日毎日、体の調子が良くても悪くても、気分が乗っていても乗ってなくても、ステージに立たなくちゃならないミュージカル何て止めておけ。しかもギャラが悪い!」と言って止めたらしい。フランク・シナトラとサミー・デービス・ジュニアの関係は、師弟というか親子のようなもの。元々ある程度有名だったサミー・デービス・ジュニアも、シナトラに認められて、初めて白人にも支持されるようになっていった。
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